バーナード嬢曰く。の書評のよな神林しおりへのラブレターのような。

 創作上の文学少女に苦手意識がある。


 ここでいう苦手意識ってのは「職業ものマンガは実際にその職業に従事している人間にとってはちょっと読みづらい」話に通じる気がする。現実と創作との差違にいちいち引っかかってしまう。これを書いている人間は古書店手伝いだの図書館勤務だのを経験してて現実に存在する読書家だの愛書家だの書痴だのと知遇を得てたりしたので。なんかこう。創作上の文学少女に対して「なんかちがう」という違和感を覚えることが多い。

 現実と創作は違うんだけどさ。なんかちがうんだよね。
 私が遭遇した愛書家は……おっさんばっかりなんだけど。まあおっさんの話は別にいいや。

 創作上の文学少女の思いつくありがちげな特徴を挙げていけば、引っ込み思案で、人見知りで、対話が苦手で、苦手でなくともどこかズレてたりして、身を挺してでも本を守り、運動音痴で、世知に疎く、些細なことにも感動を得て、範疇の外にある専門家を強く尊敬して、本を読むだけじゃ知らなかった世界とかいいだすとああもう最悪だ、黒髪ロングで眼鏡装着の有無は置いとくとして。

 思いつきで列挙しただけなんで特定のキャラを指したわけではない
「お? 彼女のことか?」と連想するところがあった人に言いたいけど決してその娘のことではありません。


 なんかこう。なんか違う。生々しさがたりない。
 なまなましさが。
 不思議だったのは、実際に愛書家だったり活字中毒だったりして、私なんぞよりもはるかに読書をしているプロ作家な人々が、なんで『文学少女』を創作したらば「こう」なってしまうんだろうという点だった。
 まあ、積極的に「おーれーのー理想にあう文学少女はどーこーじゃー (蜘蛛みたいに手足を伸ばし薄暗い図書室をサーチライトみたく眼光をびかびかさせつつ這い回っている姿を想像してください) 」と探し回ったわけでもないんで偏った疑問ではあるし、そもそも私と作家先生の思い描く理想の文学少女が一致してないのはむしろ当然である。
 なので「おれのかんがえたさいきょうのぶんがくしょうじょ」みたいなものを考えたことはあった。

 まず独善的な性格は欠かせないねー。そんで自分の知識よりも書物のそれを重んじている気配があってー。こっちが話かけてるのに活字から目を離そうとしない具合でさー。

 そうやって考えてみはしたものの、回答らしきものにはたどり着けなかった。
 私では看破できなかった要素があったのだ。
 理想の文学少女になまなましさを与える要素。
 そしてそれは作者の理想故に排除されてしまうものでもあった。
 創作上の文学少女が持ち得ないもの。
 神林しおりはそれを持っていた。


 バーナード嬢曰く。を読んだきっかけはこの強烈な書影だった。

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 うーわーおーしーえーてーほーしーいー。
 内容は言ってしまえば読書あるあるネタではある。或いは赤裸々な読書体験。その精度の確かなこと。
 しかしバーナード嬢曰く。は、そのテーマそのものに、読書家を自認する人々が意識的に、あるいは無意識に忘れようとしている感覚を剥き出しにして置いてある。
 それは

 読書はかっこいい。

 この事実である。
 そうなのだ。読書はなんかかっこいいのだ。言ってしまえばそれは虚栄であって社会全体がもつ知的者層へのコンプレックスを下敷きとした虚像だろうから、翻って活字離れだの出版不況だのの病根でもある。できればなくなってくれた方がありがたいイメージではある。
 けれどもしかし、事実として。


 読書はかっこいいのだ。


 どのくらい笑い話でどの程度に実感が伴う話なのかわからない与太話に「ロックシンガーがバンドを/ギターを始めた理由の九割は『モテたいから』である」というものがある。ついでに「バンドを/ギターを辞めた理由の七割が『モテなかったから』」という話に続くんだけど。
 読書家だってスタート地点はそれと一緒だ。断言してもかまわない。読書家が読書家になるきっかけはなんかかっこいいからである。
もちろん、読書という体験はただのファッションに収まるものでは決してない。きっかけだの入り口だのはどうであれ、どこかのポイントで書物によって人生ひん曲がる衝撃を与えられたからこそ愛書家は愛書家なのだ。しかしそれとはまた別に、読書家を自認して以降も、あるいは読書という趣味の素晴らしさを体得したからこそ、読書家は己の理想的読書家へ向けて生活を、己の人生そのものを少しずつコーディネートしていく。
 小中学生時の図書室の読書カードを何枚も埋めて悦に浸り、古書店で本を求め費やした時間を数え、図書館の貸し出し制限いっぱいを抱えて帰り、かばんに文庫本がないとなんだか不安で、満員に近い通勤電車で少し姿勢に無理をして文庫本に目を通し、読書を終えて喫茶店をでた夜の暗さに満足し、映画だのドラマだので引用される出典を我先に当てて得意になったり、なんかこーそんな感じで。


 けれども読書は極めて個的な体験だ。いっそ孤独な作業でその姿には好ましい静けさがあると谷川俊太郎も言っている。
 そこにかっこいいだとかいう外的視線は不純物に他ならない。勉強だとか教養だとかを求めての読書さえそれは純粋でないとして忌避されたりするとホルヘ・ルイス・ボルヘスも語っている。
 それでも読書家は、他人の目を意識して読書したことなんざねえよと自身に言い聞かせねばならない。
 しかし、目的を達成し続けていくとその末に、最初の動機そのものに立ち戻らねばならないときがくるみたいなことを三島由紀夫も書いていた。
 立脚点はその後の積み重ねを全て支えるポイント故に、なかったことにはできないのだ。
 ごめん谷川俊太郎ボルヘス三島由紀夫もたしかこんなこと言ってた気がするなー程度の根拠で書いてます。


 読書は孤独な作業であって、文章を通じた自意識との対話だ。
 どんな本で夜を徹したか。どの本を壁に投げつけたか。そのリストは自己の証明に他ならない。
「最近なんか面白い本読んだ?」と聞かれたときに身構えない読書家なんてたぶん存在しない。

 読書と自意識とは切り離せない。
 読書家は首輪をしており、その鎖の反対は同じく首輪をした自意識という怪物に繋がっている。
 その怪物はこんな顔をしている。


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 いやでもほんと。
 怪物こと町田さわ子ことバーナード嬢ことド嬢は、本読みのそうした相克を、なんとか直視せずに済まそうとしていた爆弾だの断崖だのをあっさりと、読書家でないがゆえに飛び越えている。
 彼女が常識のように呟く「だって読書家ってかっこいいし」「でも読書ってめんどくさいよね」というそれは諸々積み上がってる立脚点に直接ケリを入れるような言動であるのに、彼女は日々それを行っている。その怪物っぷり。


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 恐れみよ。これが怪物だ。


 そして神林しおりはその魔物に日夜立ち向かっているのだ。
 物理的に。



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 これら神林しおりの勇姿は、勇敢な姿ではあるけれども同時に愛書家にとって当然の態度だ。
 書物を愛しているのだから、それを軽んじ結果のみを求める者ならば断罪して然るべき? そうかもしれないけれど、少し違うのだ。
 愛書家と怪物とは同じ鎖でつながれていると先ほど言った。
 神林しおりは、町田さわ子 の読書態度を排撃しているようにみえて(事実その通りだろうけれど)、刀鍛冶が燃える鋼から不純物を取り出すべく槌を振り下ろすのと同じように、町田さわ子という自身の内側にも通じる怪物を叩くことでより純粋な、己自身が理想とする愛書家に近付くべく戦ってもいるのだ。
 神林しおりだって完璧に純粋な愛書家ではないのだ。SF文学マニアで、休み時間を常に図書室で過ごし、電子書籍への移行に抵抗を覚え、一人旅の友とする本を楽しげに選び、本を買うために静かな喫茶店で働きながら客のいない寸暇にエプロン姿で読書に耽る黒髪ロングの ― ― てオマエ完璧だな。完璧じゃねえか。まあ完璧にみえるけど、それでも神林しおりも完璧に純粋な愛書家ではないのだ。
 この本を薦めたら変に思われるのではないか。この本を読んでいたらオタクにみられるのではないか。
 他者の目を気にし、そして他者の目を気にて読書をしてしまう自分自身に、ときおり苛まれているのだ。
 でなければこんな魂からくるような叫びをあげられるものか。


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 なんねーよ! てゆーか他人からどう見られるかとか意識して読書すんな!! そんなん気にしてたらどんな本に対しても読者層を勝手にステレオタイプ化した挙げ句「私はあえて一歩引いた距離感で読んでます」みたいな保険かけたつまんねえ読み方しかできなくなるんだよ! 人に影響与えられる本っていうのは毒になろうとも薬になろうともそれだけで貴重な財産なんだ! 「イタイ」とか「恥ずかしい」とか思われようが読了後生き方が変わるくらいどっぷり作品世界に浸からないと濃厚で価値のある読書体験は得られないんだよ!!!


 ぶっちゃけ泣いた。
 泣いた。
 そうなんだよなー……おじさんも、本を読むのならば常にその本が人生観を変えてくれるものだと期待しながら読むべきだとか思ってるし、未だにねー。映画館でさー。予告が終わって本編開始前のスッと暗くなった瞬間に、ああもしかするとおれはこの映画を観て人生が変わるかもしれないとかねー。思っちゃうんだよねー……。
 まあおっさんの話はいいや……。


 神林しおり嬢本人の実体験からくる叫びだよねコレ。論拠は敢えて用意せず断言するけどさ。
 トラウマめいた過去の出来事なのか、それともこれまでの蓄積で淀んだおこりなのかはともかくさ。実体験だよね。
 その叫びをモロにうけて、涙腺に思わず打撃をもらいながら悟ったわけですよ。
 ああ。ここにおれの理想の文学少女がいる。
 おれの理想の文学少女はここにいたと。


 私自身が理想の文学少女を思い描きながらも気付くことができなかった大事な要素であり。
 創作上の文学少女が、創作される存在故に、作者により排除されてしまう、架空の文学少女に生々しさを付与する要素。
 それは自意識だったのだ。
 読書は決定的にかっこいい。読書家は読書が好きであり、どれだけ否定しても、読書をしている自分も好きなのだ。
 多くの読書家がそれと立ち向かい、可能ならば排除し、解放されたいと時に強く思う要素、それが自意識だ。
 だからこそ、読書家が描く理想的な文学少女は、純粋に読書を愛し、自意識から解放された、架空の存在らしい美しさを持ち……生々しさを欠落させていたのだ。



 バーナード嬢曰く。には、読書家と自意識の相克が、神林しおりと町田さわ子という姿を得て描かれている。
 或いは、理想と現実との調和を志す話でもある。たぶん。
 施川ユウキ先生も狙って並べたのではなく偶然の産物だったんじゃないかなー。どうなんだろ。もちろん町田さわ子という怪物を生み出せた時点で約束された勝利という気はする。


 神林しおりのこの叫びをぶっつけられた町田さわ子は、その後に少しだけ読書姿勢が変わることになる。
 基本的な態度は変わらないもののけっこうちゃんと本を読むようになる。あれ。ヤベ。もしかしてサワコちゃん今のおれよりもちゃんと読書家になってるんじゃね……? と思えるくらいに。
 そりゃそうならざるを得ないだろう。
 思えば、読書家を志す町田さわ子にとって神林しおりとは理想の存在だ。それが目の前にいるのならば自然と変わらざるを得ないところはある。
 少しずつではあれ町田さわ子は理想に近付いていく。


 一方で、神林しおりもいつまでも純粋では居続けられないのだ。正確には、純粋を求め続けるのは不可能に近い。
 自意識に自覚的にならざるを得ず、それなりに折り合いを付けていかなければならない。
 その過程に、目前に、自意識を擬人化したような存在として町田さわ子がいる。その頭を時にはたき、時にベアクローをかましながらも、時に「……まあ私もそういうところがあるしな」と態度を軟化させたりする。
 自己規範が強い故の不寛容という自縄自縛が、町田さわ子によってほぐされていく部分がある。
 そうして神林しおりは現実だとか自意識というものを受け容れていく。


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 なんかの映画で言ってた神話なんだけどさ。
 人間はもともと二人で一つだったのに、なんかのきっかけで別々の体に別れちゃったんだってよ。それでも元通り一つの存在になりたくて、自分の欠けた部分を埋めてくれる誰かを今でも探してるとかいう話。
 まったくロマンチックな話だぜ。