バーナード嬢曰くの3巻のリアルタイム感想の残り半分。
やってみたかったことではあるんだけど、初読時にやらなきゃ意味がないだろうと思ったせいで、それが出来るタイミングを待ってたら購入からおよそ半年経ってたなんつってな。
一冊読むのに8時間くらいかかったけどかなりの満足を得られる読書法ではありました。
・動物の名前。
そうね。私も「お前は私に飼育される存在になるのだ」みたいな気分で名前を付けることが多い。
その一方で一応共同生活を送る上での機能性もあるんですよ。名前呼べば「なんか用があるらしい」て事に気付いて貰えるんで。
・平行して複数の本を読む。
森川幸人というひとが集中力の逆として分散力って言葉を使ってたな。正確には最初に言ったのは糸井重里だった気もするけど。
一冊読まなければ次を読まないなんてのもこだわりというよりかはいっそ悪癖なのかも知れない。
・どの本とも最後まで付き合えない、と自然と擬人化めいた言い方になってるあたりさわ子ももう相当本好き。
・ふしだらだぞと叫ぶJKとかかわいすぎて国に保護されるべき。
・ところでさわ子のその行為がふしだらなのだとしたら「最後まで付き合う」てどういうことになんの? エロくない?
・読書家は見切るのが早い。
たまに言われる「冒頭3行でその本の価値が分かる」的なのは要するにそういうことな気がする。
・神林しおりは未練がましい。はい覚えておきましょう。
・中断したまま数ヶ月。でもみんなまだJK。
……作中で明言されてないと思うけど、JKでいいんだよな。バイトしてるし。
・「みててもいいですか?」 お。踏み込むね長谷川さん。
さっきの「最後まで付き合う」がどういうことか考えたら相当な覗き趣味だよね。
・映画は別物。
映画化を手がけたら原作者から「アレは違う」つって映画の不満点を改めて修正した続刊を刊行されたり、「まあ別物だよね」ときっぱり言われたり、「むしろおれの書いた小説よりもおれの言いたいことを表現してくれた」と褒められたりと何かと一言言われがちなキューブリックという爺さんのことを思い出す。
・本を読んでもいいかなという遠慮。
コミュ障というほどではないにせよ神林しおりは友達そんなにいないんだろうなというところが察せるくだり。
(あらゆるジャンルの二次創作界隈になぜか必ず存在する「○○はぼっちだよ」と言いたがる勢)
・二人で喫茶店に来ながら別々に小説読んでたりするのがおれの理想のカップル像です。
・さわしおが二人の関係に終始している中でちゃんと文学な話題は大体遠藤君の担当になってるのね。
おじさんが若者だったときは『小惑星が地球に衝突して人類が滅ぶ可能性だってあるんだぜ』というTVの特番に対して「世の中にそんな劇的なことが起こるはずがないじゃないか」という態度を取ったのがそれに近いと思う。
・そっちの方が遠藤さんらしいです。町田さんは豊かな人生を送りそうですね。
という長谷川さんの表情から伝わる施川ユウキ先生の魂の筆致。
長谷川さんがだんだん図太さを身につけ始めている。
・殴った! 65ページにしてついに殴った!
・ハートとか葉っぱとかを泡で描いたカプチーノを横に置きたい。
具体性に笑う。
・基本的にさわ子のいいなりよね神林、
・エドワードゴーリーおれも好き。
おぞましい二人は後書きまで含めてなんだかすさまじかったな。
創作は誰かに奉仕するための存在などではないのだ。
・我々は村上春樹の呪縛から逃れることはできないのだ。
時空を超えて何度私たちの前に立ちはだかるのだ……村上春樹!!
・関係の中の読書。て所から軸がぶれないよねさわ子。
・歯痛の話を取り扱った本……思い出せそうなそもそも読んだことがなさそうな……ああ……。
・誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
ものすごい名文にこのオチ。このダイナミックな冒涜がバーナード嬢曰くの大事な魅力といえる。いいたい。
しかしほんと泣ける。
・この状態……ケンカだったのか! と今さら気味に気付くしおりさんはやっぱり今まであんまり友達がいなかったですね?
・理性は、理知的であろうと努めることは、感情を蔑ろにするわけでは決してないし、
常に問題を明瞭に平易にしてくれる。
「貸した本、結構ちゃんと最後まで読んでくれるんだよね……」という気づき方が、もうね。
相手が本を好きだといってくれたこと。こちらが渡した本がどんな内容か知ろうとしてくれたこと。
自分がその本でなにを感じたか知ろうとしてくれたこと。
それがどんだけ尊い行為であるか。そこからほだされるあたりほんとにもー神林しおりがおれにとっての理想的な文学少女であると思いを新たにしますよ。
一方で、町田さわ子は理性や理知でなく、「神林に嫌われたくない」という直感でまず最初に謝ってるんだよな。
この関係ですよ。
もちろん、ギャグ漫画と物語との間に優劣なんて存在しない。それを前提とした上で。
バーナード嬢曰くは確かにギャグ漫画ではある。
けれども物語としての機能も十全に備えている。
読書を中心とした人同士の繋がりのお話である。
・タイムトラベルものに猫って良く出てくるよね。
ごめん夏への扉しか知らない。
・さわ子はさわ子で 、「そっちは後で読むよ!」と断言できるその躊躇のなさが私にとって異星人みたくみえる。
・読み方を強制してはいけない……とこらえる神林しおりの人間的成長の軌跡をみよ!!
・人は何かを辞めるときでさえ何か理由を付けないと辞められない。
とは立川談志の言葉。
・犬が出てくるSF。やべ。SFどころか文学全体でもちょっと思いつかない。
・ポチはポチで同じポチでもどの作品のポチかで違うのはそうかも知れない。
・あ、サンリオSF文庫だ。
・さるかに合戦とレザボアドッグス。
まあ確かに、歌いながら耳を削ぐバイオレンスシーンみたく拷問が散見される昔話ではある。
・グフフフという笑い方をしてもなお神林しおりはかわいい。
・それはそれとして除虫菊皆活字中毒の韻。普通によくない?
・手に入れたくてずっと探してた本ー。
というと私にとっては詩人の夢かなあ。amazonとか日本の古本屋のおかげでもうそんなに探すことももはやないけど。
それによって失われるロマンは確かにあるだろうけどそれでもその便利さは肯定してしまいたい。
・もしかして遠藤君このマンガのなかで一番キャラ濃くない?
・手に入れることが目的になると。しおりちゃんまたそういうめんどくさいこというー。
古本屋さんでお手伝いしてたときにそういう、なんかもうとにかく本を買うのが目的になってるよねって爺さんを何人かみたな。上客でした。
・恥ずかしがってる神林を額縁にかざろう。
・同じ話を何度だってする……!! てアレよね。マサシがいうところの関白宣言ってやつよね。
お前を嫁にする前に言っておきたいことがあるってやつよね。まあちょっとは覚悟しておけってやつよね。
その答えが「何度だって聞くよ?」ですよ。なんなんだよもうおれをどうしたいんですか。
・て、ネットでみた。とは我々凡人にとっては常にエクスキューズであるのにこの堂々さたるや。
・図書館警察。怪物を掴んだときの「ふやけたティーバッグみたいな感触」て描写の生々しさを覚えてる。
いや子供の頃にレイプされたのはわかるけど主人公男だよね……しかも子供だったんだよね……? て部分に釈然となかったあの頃。
・火の鳥好きだけどどの編がどんな話だったか正直あんま覚えてない。
でも確かに好きなエピソードを挙げろといわれたら「神よロビタを救いたまえ!」だよなー。
でも確かに我王には勝てないよ……猿田博士だし……。
・しかし手塚治虫の修正に関して語れるとかどこの次元のJKですか。
・シンゴジラのまねをして手のひらを空に向けてる神林しおりをフィルムに残そう。
・だからゴジラ対へドラみてるJKとかトロピックサンダーとかフロムダスクテイルドーンとかを好きだと語るJKと同レベルにどこ次元のJKなんだと。
・能動的な没入が求められるからこそのVR。
実際に最近そういうソフトウェアの話が出てたよね。初音ミクが座ってる横でゲームできるやつとか。
・三毛別羆事件はWikipediaで読んでさえ震え上がるくらい怖いからな……。
・どんなに優れたレビューよりも。
それはそれで寂しい話にも感じてしまう。
それならば物語の意義とはなんなのだろう。架空の物語はいつだって現実に勝てないものなのだろうか。
けれども。
バーナード嬢曰くは読書と人の関係みたいな話のように思ってる私としては、なんだか相応しいシメであった。
バーナード嬢曰くの3巻のリアルタイム感想前半戦。
感想と言うより反応。
読んでる最中に思ったことを即メモ書きしていくただたんにやってみたかっただけの行為です。
・表紙絵。
でもね、ド嬢。それがなければ読書家にはなれないんだよ。
ていうかそこは「ドグラマグラ」あげてよー。
人生変えられた本というと少し違うけど、さわ子はあの瞬間から読書家への一歩を確かに踏み出したんじゃんよー?
・表紙絵のインパクトはともかく、帯の時点でもうメモしたい。
「ド嬢は自分よりも読書家になっているんじゃないか……? と不安になっている読者もいるかも知れませんが」
まったくその通りです。
まったくその通りだけど、おれだっておれのそばに神林しおりがいたらそうなってたよ?
・人間臨終図鑑。面白そう。
風太郎せんせが資料として集めてたついでにこれまとめたら面白いんじゃね? と思ったからまとめたみたいな流れなんだろうか。
・トルストイ!? あの有名な!
さわ子さんドストエフスキーと区別付いてなかったりしませんか。
中編だから読みやすいっつっても罪と罰よんだ限りじゃ改行少なめのびっちりした文体でみためより文章量多いぞ。
・死をテーマにした小説。で、個人的な読書体験が即浮かばない読書筋の衰えが悔やまれる。
なんかあったはずなんだけどな……すぐに浮かんだのは星新一小松左京筒井康隆の御三家が「おれたちの中で最初に死ぬのは星さんだよね」「いいひとだもんな」「そんで最後まで生き残るのは筒井」「だろうなー」とか話してた通りになったねとかそのくらいだけどこれ別に小説じゃないし……。
・ダロウェイ夫人が二人の挙げている小説に似て逆パターンかな。
意識の流れを丹念に追う手法は似通っているけど、最終的には生きる活力を得る方向で終わったと思う。
実際んところはそれを原作にした映画の「めぐりあう時の中で」のが印象に強い。映画の方だとヴァージニア・ウルフさんが入水自殺するシーンから始まる。
・読書家二人で交換しあっちゃってハミ子にされて拗ねるさわ子だけどこれ大事な変化だよね。
読書家二人のやりとりにちゃんと参加意識を持ててるってことだもんな。以前なら「読書家っぽくてかっこいいな二人」で済んでたところですよ。
・現実に引き戻される神林しおり可愛くない?
・死ぬには良い日だってことですかね。トルストイの死に方。
若者に檄飛ばして割腹自殺した三島由紀夫とどっちがどのくらいだろう。
・近代付近の作家って自殺した作家とそうでない作家で大別できる気がしてしまう。
・しつこいくらいしゃしゃり出てくるんじゃない? と、ひねた言い方しかできない神林しおり。
やった! と素直に言える町田さわ子。
・年の離れた弟がいるので赤ん坊の泣き声は身近にあった。気がするんだけどあまり思い出せないな。
観察をしたことあった気はするけど、しかしここまで透徹とした視線であったはずがなく。
・「スランプ」な町田さわ子を慰める遠藤だけど、やはりド嬢周辺の人間はド嬢が読書家たろうとしているのを応援したがっているのか。
・私は電車に乗ってると妙に読書に集中できる。環状線のある地方を割と素で羨ましく思うくらい。
生活の中でそうした強制的な余暇があんまなくなったから読書から遠ざかってるのもあるんかなー……環境は人を作るよなー……。
・教科書にも載っているお話をなにその変な話とはなんだ。
夜の間に壁を伝い伸び屋根裏に潜む盗賊どもに近付き匂いを漂わせてくるノウゼンカズラの描写とかまさしく小説的であり文学ではないかとか書いたけどこれ羅生門ちゃう偸盗や。
・「本を読め」という神林しおりのコマが素で泣けるんですよ。
もう神林しおりはさわ子に対し「いいから読め!」と暴力を振るわないんですよ。
そんなことしなくたってさわ子が読むのをもう知ってるし、彼女が持つ読書への敬意ももう理解しているのだから。
バーナード嬢曰くという作品全体のなかでも大事な一コマになると思う。
ああ、読書家の友人とともにアルコールランプを読書灯に読書するさわ子の幸福げな表情をみたまえよ……。
・文学はもはや文学史となり歴史であって偉人も多く、為に読書家は名作名画への敬意も欠かさないのだ。
礼節が紳士を作るんだよ。たぶん。
すいませんシリーズ通してあんまみたことないのに 「ルーカスはディズニーが作ったスターウォーズを気に入ってないらしいよ」とか話題の種にしてすいません。
・コイツみたいなことを考えてしまった。
大丈夫だよ誰の心にも町田さわ子は偏在しているから。
・おらうーたん。検索した。そうか世界最初の名探偵か……。
一生読まないからネタバレしてもいいやって私もやったことあるな。
正確には、このゲームは遊ばないと決意してプレイ動画でエンディングまで観たんだけど。スゲエ後悔した。
むちゃくちゃかっこいいBGMがさ。すげえ大事なシーンで流れて、ああ実際にプレイする機会があればこれ異常の衝撃と感動を覚えただろうに、おれは自らその可能性を閉ざしてしまったのか。今生での機会を自ら潰してしまったのかとそれはもう悔やんだ。
Heartful Cryて曲なんだけど。
・おれネタバレを忘れるのけっこう得意。
読んでない本のネタバレなんて身につかないからいつか忘れる。て実践的でいいね。
・ネタバレはマナーとかの問題でなく、作品とその作品に触れる体験に対する敬意であって自己規範の話だと思う。
ネタバレしてたって面白い作品は面白いのであるからに。
・青春感じゃねえよ青春そのものだよ!!!
・ツノゼミは早川いくを著のへんないきもので知った。
それ単体で本に出来る勢いなのね……。
・神林しおりの「暑い」
「燃料投下」の実例というかもはや具現化をみた。
・あーもー神林しおりかわええよーもーなんだよ萌えマンガかよー。
・推理小説ってつきあい方が割と難しいよねと叙述トリックの話。叙述トリックがすごかったんだよーとかいうとネタバレになるわけだし。
割と小説ならではな手法になるんかな。エンタテイメント。でも映画でもそういうのはあるにはあるかとタイトルがいくつか浮かんだけど伏せておく。
・オイルランプの実証主義(?)はSF畑と捉えればいいのか推理畑と捉えればいいのか。
なににせよ「現実はこうでした」というネタばらしもなんだか名著の匂いだ(?
・古本屋で買った本に朱引きがしてあって、しかもそれが自分の気になったところに先んじて引いてあって、読みながら気になってしょうがなく読書に集中できなくてちくしょう前のこの本の持ち主はどんなヤツだったんだとイライラしながら読み終えたら自分の蔵書印が捺してあったという井上ひさし先生の話が好き。
・お前らエブリディ読書会じゃねえか。
・学研まんがシリーズが図書室通いの一歩という本読みは少なくないはずだぜ……あと世界の偉人シリーズとか。
あさりよしとお先生のまんがサイエンスシリーズを読んで、後々の後々にるくるくを読んでしばらくして「え。あ、まんがサイエンスのひとじゃねえかこのひと!」とか気が付いたりするよね。
・思いつきだけで生きてるのがよくわかるトンボと戯れる町田さわ子のシーン。
秘密の共有を持ちかけるとかしおりちゃんむっつりだわー……そのくせに積極的だわー……。
・読んでもらえないの! つって髪を振り乱す神林しおりチョーかわいくない?
・「お茶菓子つまんでガールズトーク! 楽しそーだな!!」という絶叫にこのこの将来が垣間見えた様な気がした。
・今んとこド嬢が取り扱ってない本読みあるあるに、『なんか大事にしすぎててかえって読めない小説』ってのがある気がする。
ルグィンの闇の左手が私にとってそこそこそれ。他芥川作品を全部読んでから読もうと決めてしまった河童と或阿呆の一生とか。
……別にあるあるじゃない可能性もあるな。
・沈黙映画化しますねそういえば。メル・ギブソンに自作自演マゾ映画とらせてる場合ではない。
しかしさわしおに比べて遠藤長谷川は全然進展しねーな。
・新潮文庫はyondaとか色々キャンペーン張ってて立派よね(……て思ったら2014年でもうキャンペーン終わってた
いやべつに他出版社がキャンペーン張ってないわけでもないのだが。
・高慢と偏見とゾンビとか、ごく最近な話題が入ってるとなんとなく驚くアレ。
作品と現実とが地続きに思えて少し不意を討たれる感じの。
・たぶん今頃アメリカには(名著)とゾンビてタイトルの本が豪華客船を沈ませかねない勢いで量産されているのだろう。
あるいはそれの結実が高慢と偏見とゾンビなのだろうか。
・大丈夫だよ神林ちゃん世の中にはそれで結局アンドロイドが電気羊の夢をみるのかどうなのか知らないのにタイトルに借用したり、
たった一つの冴えた方法がなんなのか知らないまんまタイトルに借用したりする’同人作家とかザラにいるから。
・なんとなく古本屋さんの文庫棚を眺めてるときに目に付いたらどうせ100円やそこらだし何冊も重複買ってたりする本があったりしませんか。
私にはありました。古橋秀之のブラックロッドという電撃文庫です。
・膝を折って古本屋の棚を凝視する神林しおり以上に神林しおりらしい可愛らしさに満ちた存在があろうか。
・本の価値はただの流通価値だからねー。
どんだけ素晴らしい思想の書かれた本であっても必要なのは紙代と印刷代と流通費用だけってのはなんだかなんとも。
・さわ子の読書家っぽく振る舞いたい話も久々な気がする。
それこそ「本の価値は自分で決める!」というしおりの反応と同じエピソードに収められていて好対照である。
・ガチ古書店。新古書店と違って、古書店には「たくさん印刷されてない専門書の流通を助ける」て作用があるからね。
古本屋が存在する限り、その本はいつかは必要とされている人のところへ届くのよ。そのあたりの話も過去の話になりつつあるけども。
・古本屋でこの本の値段いくらだろうと背表紙をみたら登場人物一覧の一人に赤線が引いてあったのはみたことある。買わなかったけど。
図書館で借りた本に同じく登場人物に赤丸が書かれてて、オイオイ公共物だぜと思ながら読み終えたけど犯人でもなんでもなかったという体験談を聞いたことならある。
・それ面白いです。と感想を述べるだけに済ませてる長谷川さんかわいくない?
・グレゴリ青山というひとの書いた古本屋バイト体験談マンガに「仕入れてきてとりあえず積んであるだけの本にお客さんが群がってくるのはなんで?」てネタがあったね。
店員からしてみてもあるある話なのか。
・雪国とぽっぽ屋がおれのなかで混ざってる。どっちも読んだことない。
・地の文っていいよなー……。
・ 冷えた神林しおりの手を町田さわ子が暖めたというお話は微笑ましくみえる一方で、看過しがたいほの寂しさを感じるのは私だけだろうか。
しばらくずっとさわ子としおりという関係が描かれたこのマンガにおいて、忘れものを取りにその場を去るという偶発時により神林しおりは久々の孤独を得る。
読書は体験で、その読書をした環境もまた体験であり思い出である。
より純粋な、書物の魅力に耽るならば環境という可変な要素は雑味であるかも知れないけれど。
それだとしても、峻厳な世界を描く小説と、かじかむ手とを重ねてみる神林はその小説世界に浸り、一体化している。
その瞬間の神林しおりは、読者と物語とが同化した純粋な存在のようにみえる。
しかし、そこに差し伸べられ包む手は、神林しおりを現実に引き戻し、物語から引きはがし、その暖かさでもってしおりと文学との結合を融解させる手である。
一時的にではあれ純粋な文学少女となっていた神林しおりの純潔が侵された瞬間でもある。
その後の、表紙について熱く語るしおりに理解を示さないさわ子という構図もなんだか示唆的だ。
読書というのは常に個的な体験であって、本を読んでいる最中の人々は常に孤独だ。
純粋な読書というものは孤独でなければできない。
例えば読書会のような感想の交換もまた豊かな体験ではあるけれど、そうして自分以外の感想とまざりあった感想は、純粋ではなくなるとも言える。
無論その純粋に価値があるかどうかは別問題として。
「バスが来たよ!」という、帰路を指す一言でエピソードが終えられるのもなんだか象徴的ではないか。
理解し合えないこと。共有の出来ないもの。そうした根本的とも言えるものを描いた様に思えるこのエピソードは、
確かに冷たく寂しい出来事ではあるけれど、孤独というものがもつ価値もまた噛みしめねばならない。
・要するに純潔が汚されたエロいシーンだよねといいたい。
・ちくま文庫の表紙っていいよねー。と思いつつきょとんとしてた私を納得させるオチ。
緩急もあって今巻で一番笑ったシーンになるかも。
この世界の片隅にを観たよという報告。
まとまった感想とか言えねえよこんなもんというくらい感情移入してしまった作品なので。感想とか評論というよりかはただの観たよー報告です。
断片的に思いつくまま書いていきます。
そのいち。選んだもの、選ばなかったもの、選べなかったもの。
映画版のこの世界の片隅にですげー好感触を持ってしまったところがひとつあって。
それは、すずさんの旦那さんである周作さんの女々しくも男子らしい部分であった。
男らしいのに女々しい。表現が変な気はするけど女子に対して女々しいとは言わないので男子に女々しいというのは相応に正しいはず。
バールのようなもの。という話はともかくとして。
女々しいという言葉も男性本位な視点っぽく思える言葉だからあんまり好きじゃないんだけど、他に適した言葉が見付からないので続けて使う。
周作さんは旦那として申し分なく優しい男性ではあるけれど、一方で煮えきれない女々しさもある。
折に触れて「すずさんに選択権を与えず嫁としてもらってきた」ということに負い目を感じてるだろう部分があって、
それと同時に「それでも自分に惚れてほしい・好いてほしい」という願望を隠せずにいる点である。
黙ってオレについてこい。みたいな封建的男性像よりかはずっと好印象なのは確かなんだけど。
その挙げ句に、水兵さんに女房を明け渡したりしてしまい、その後ずいぶん経ってすずさん当人から「夫婦いうのはそういうもんですか?」と怒りをぶつけられ「すずさんがわしにあんな顔をみせたことがあったか!? わしに怒ったことがあったか!?」と、幼なじみな二人の親密さに拗ねた末の行為だったと明かしてしまう女々しさ。
自分が選んで連れてきた。相手に選択権を与えなかったという負い目。どっちが表かはわからないけど、その裏返しの、相手に自分を選んで欲しいという願望。
そこからくる嫉妬や、義理に隠した自棄。それは作品を通じ長く尾を引いて色んなところで表層する。
例えば、「わしは、すずさんを選んだこの現実が最良の選択じゃ思う」だったり、
「わしはあんたと夫婦になれて楽しかったで、あんたのいる家に帰れて嬉しかったで。あんたは違うんか! ここはよう知らん男の家のまんまか!?」だったり。
一途なのだ。
とにかく、すずさんに自分を選んだと言って欲しくて、その自信が欲しくて。
ああ。ええ旦那さんや。すげえいいひとですよ周作さん。いやみんな知ってるだろうけど。すずさんといううわーちくしょーすげえーかーわーいーいー女性と所帯を持つに相応しい男性ですよ。
主人公とは、お話の選択権を知ってか知らずか与えられた存在ともいえる。
けれども、すずさんは何かを選んだだろうか。
ぽやーとしているすずさんは、流されるままに流されるけれども、したたかさも併せ持っていて、持ち前の柔軟さで、懸命に順応していく。
すずさんは何かを選んだだろうか?
「イヤだったら断ってしまえばいい」と言われたお見合いも、どっちかわからないとぼんやりしているうちに輿入れが決まる。
広島の風景を絵に留めて「さようなら」と呟いても切符を買い損ねてもう一日広島に逗留する。
幼なじみと再会しても「今はこんなにもあの人が憎い」と拒絶する。
広島に帰ると周作さんに言っても、やっぱりここに置いてくださいと径子さんにすがる。
あの人はここから離れられただろうか。家を壊してもらって、胸を張って別の土地にいけただろうか? と自問する。
おさげを切り落として「連れて行ってください!」と懇願しても「いけん!!」と強くたしなめられる。
選ばずにぼんやりしてたらいつのまにか決まっていたり。あるいは決めたつもりでも翻意にされたり。
決定権を色んな形で逃し気味のすずさんだけど、自らの選択をどうしようもなく悔やむシーンがある。
それは選択と言えたものだかどうだかわからないかすかなものだけど、それでも、自らの選択だと悔やむシーンがある。
晴美さんとつないだ手が、右手でなかったら。
書いててもうぼとぼと涙が出てくるけど。
だってどうしようもなかったじゃん。
どうしようもなかったじゃんかよお。もお、だって。選べるはずがないじゃないかそんなもの。
それでもすずさんは自分の選択を悔やむ。
繋いだのが右手でなかったら。もっと早く気付いていたら。 あの茂みに飛び込めていたなら。
あのときの自分の居場所はどこだったろう。
観ている側としてはそれはもう切実に、どうしようもなかったじゃないかと伝えたい。
選択権なんてそこになかったじゃないか。 選びようがなかったじゃないか。
本当にそうだろうか?
この作品は日常を描いた作品である。
どうしようもない世界規模の悲劇が起きたってそこには日常があるという話であり、日常の中にだってどうしようもない悲劇は怒るというお話でもあって、それでも日常は維持され続けるというお話でもあって。とにかく懇切丁寧に大事に、執念じみた情熱でもって日常というものが描かれた作品だ。
だから、日常というものの残酷さだって描いている。
玉音放送とともに戦争の終わった日、すずさんは何に気が付いたんだろう。
何に気が付かずに、いっそ何も知らないまま死にたかったと怒り狂い涙を流した「何か」とは何だったのだろう。
「暴力でうちたちを従えていたということか!」という身を切るようなあの怒りは、何が故だったのだろう。
径子さんは、なぜあのとき、晴美さんの名前を呼んで、一人泣いていたのだろう。
それはたぶん、諦めていたのだ。
そんなにも大事なものを失ってしまったのに、失ってしまったのも仕方がないと、諦めていたからだ。
径子さんという小姑さんはとても強い女性である。
何が強いかというと、何もかもを自分で選んで決めてきた女性だからだ。
旦那を病気で亡くし、二人の店は戦時だからと取り壊され、息子は旦那方の親戚に取られ、娘は戦災に奪われた。
思えばすさまじい来歴なのに。それを背負いながらも「自分で選んだ道だから悔いはない」とすずさんを励ましさえする。すずさんとはまったく対照的なひとだ。
だから、同じ諦めるにしたって、理由もなく諦めたりなんかは絶対にしない。
それなのに、戦争に負けたその日、娘の名前を叫びながら隠れて泣いていた。
径子さんは何に気が付いたのか。何を理由に諦めていたのか。
仕方がないと、諦めていたのだ。
どう仕方がないと諦めていたのかはわからないけれど、おそらくは「戦時中だから」「こんな時代だから」
だから「晴美さんがいなくなってしまったのも仕方がない」と。
もっと有り体に、とても酷い言い方をすれば。「戦争に勝つためならば晴美さんを引き換えにしても仕方がない」と。
径子さんがそんな選択をしたのだろうか?
するはずねえじゃねえかばかやろう。
事前にそんな要求をされたなら突っぱねたに違いない。知らぬ間に、気付かぬまに引き換えに連れさらわれたも同然だ。
だけれど。
あの慟哭は、径子さん自身がそれに気が付いてしまった叫びなのだと思う。
日常と引き換えに晴美をあきらめてしまったと。諦めたということは、もう、そんな選択をしたも同然だったのだと。
ずすさんが気づき、泣きながら怒り狂った何かの正体とはそれだ。
『日常』というものがどういう手段で守られていたか。
日常を守るために何が引き換えに差し出されていたか。
些細で、微笑ましく、ありふれていて、あんなにも、あるいはこんなにも愛おしい日常というものの正体が。正体という言い方が大げさならば、日常というものの持つひとつの側面がそれだったのだ。
それを選んだのだろうか?
選ばなかったからそうなったのだろうか?
それとも選べなかったのだろうか?
本当に?
答えなんかでるはずねえじゃねえかよ。というのが正直なところではある。
それとも、選んで選んで、自分で選んだ道だから仕方がないと言い、それでも泣いている径子さん相手に「選択の結果がそれだよね」だとか抜かせる人間がいるのだろうか。いるのならとりあえずぶん殴りたいけど。
それでなくとも。この作品にはどこか、選択という行為そのものに疑問を投げかけている節がある。
ぼんやりしているうちに、嫁に連れてこられたすずさん。
選んできたと自負しながらも心が折れてしまう径子さん。
「過ぎたことも選ばなかったことも覚めた夢と同然じゃ」と語る周作さん。
或いは、選択権という意味にほど近い、利き腕を失ってしまうすずさん。
或いは。選んだこと、選ばなかったこと。
選択という行為への疑問に、一つの回答のように、私にとっては救いのようにも思えるのがこのお話の最後にエピソードとして挿入される。
広島にいた、母親を失ったみなしご。
その母親は、左手で子と手を繋いでいた。右手ではなく。
それを救いだと解釈してしまうのは私が捻くれているからだろうか。
あのとき、晴美さんと繋いでいたのが左手だったとして。その結果に、もしかすると晴美さんと引き換えにすずさんが死んでしまったとしたならば、それは心に酷い傷を負った晴美さんがそこに残されたというだけなのではなかろうか。
もちろんそれでも死んでしまうよりはマシだと言える。けれど。
みなしごとともに描かれた、動かない母親にすがり、その母親に虫がたかるあの惨たらしい出来事にも似た悲劇が代わりに一つ増えるだけなのではあるまいか。
そう思えば、もう、何が間違ってただとか、何をすべきだったとか、正しいとか正しくないとかそういう話ではなくなるような気がするのだ。
それが自分が選んだ結果だろうとも、あるいは選び損ねたしっぺ返しだったりするかも知れないけれど……日常の正体とは、そういう話のようにも思えてくる。
ならば、この映画がみせた日常の尊さとはなんなのだろう。
たぶん、それの答えもこの映画は「すずさんのもつ強さ」という形で示してくれているように思う。たぶんだけど。
それがすずさんの決めた作中唯一のことだったらばこの与太話もきれいに絞まるのだけど、残念ながらそうとは断言できない。それでも。
母を失った子を抱いて、九つの嶺に守られているから九嶺というのだと由来を聞かせながら、呉へと帰っていくすずさん。
その直前に周作さんに訊ねられる。「家を出て広島に所帯を持つか?」と。それに対して「いいえ。呉はうちが選んだ居場所ですけえ」と答える。
それのもう少しだけ前に言っているのだ。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」
それは選択を受け容れる言葉であって。
選んだものを、選ばなかったものを、選べなかったものを。もしかするとそれの無数の積み重ねかもしれない日常というものを肯定する言葉だ。
そのときに初めて、すずさんというひとの強さを理解できた気がする。
でもその強さは作中に常にすずさんの微笑ましさとして現れてるんだよねー小姑さんにいけず言われてもへこたれない素直さとかそういう形でさーとかこれ以上は蛇足に蛇足にょきにょきでしかない感じなんでこの項は終了。
そのに。この作品にあった透明な執念。
最初に、文中のどこにも挟めそうにない個人的な体験を書いておくと。
広島に原爆が投下されるシーン。この作品のとても象徴的なシーンだと思う。この世界にやたらと大きな出来事が起きた一瞬で、それもとても近いところで起きた出来事なのに、画面の中の人々は「……あれ? なんだろうね。今の」「光ったよね。なんか、気のせいじゃないよね?」くらいに、不思議げに不安げに顔を見合わせるばかりで、結局は、戦時下という独特な環境ながらもいつもどおりの日常に戻っていくというシーンだった。
その一瞬の映像にはあの惨たらしい出来事を直接描くシーンはどこにもなかった。
あくまでも「あれ? 通り雨でもくるんかな?」というのどかささえ感じさせる絵面だった。
それなのに劇場中の観客のすすり泣きがすごかった。
見え透いた予兆ではあるし、日本に生まれたからには折りに触れて散々覚え込まされる悲劇の起きた一瞬ではあるけれども。ちょっと怖いくらいだったよ。うめき声めいた嗚咽も聞こえたし、前の座席か後頭部の方からかも分からないくらい色んな方向で少なからぬ人がすすり泣いていた。
おれも泣いてたんだけど。
ちょっと希有な体験だったね。
希有な体験ではあれども、日常の機微を、まるごと余さず描きつけたようなこの作品だからこその出来事だったようにも思う。
感想を言いづらい映画ってあるよな。
本当に大事なことは言葉に出来ないだとか、真の感動の前には言葉は無用だとか、そんな話ではなく。単にそういう性質を持つ作品てことである。
じゃあどんな性質かというとこれもなかなか……なんと言ったものか困るんだけど。そういった類いの作品をいくつか思い浮かべてみれば……宮崎駿の千と千尋だとか、ギレルモデルトロのパンズラビリンスとか……。
そうやって思いついた、なんか感想を言いづらい作品とこの世界の片隅にとにむりやり共通項を探してみれば、えーと、なんかこう……世界を、ほい。と丸ごと渡されるような、渡されるだけのような作品群がそれである。
こんなことがあったんだよ。と。
世界をそのまま渡されたような映画。とかいう大袈裟な表現を使わず単なる実感で言うならそんな感じだろうか。
こうの史代という作家のイメージはやはり「夕凪の街 桜の国」で形作られていて。
大それたことに挑戦したもんだというのが印象として強い。
戦争を経験してない人間が、戦争を極めて主観的に描いたお話だ。そう。主観的に、である。
創作とはつくりごとだ。架空の物語というのはどこまでいっても嘘なのだという宿命がある。そして現実はかたくなだ。
ヒロシマを舞台として創作をすると言うことは、ヒロシマを主題とした嘘をつくということだ。
そしてその嘘は悲劇を誇張するでもない、「どんな悲劇が起きたって変わらないものがある」と叫ぶものであった。捻くれた受け取り方をすれば、悲劇なんて大したことじゃないとさえなる。
そういう途方もない嘘をつくため、この作家はものすごく誠実になったに違いないと感じた。
神性を保つには不可侵なものにしといた方がいい。目を伏せて、禁句にしといた方がいい。
そんななかで、どこにだって日常はある。どんな状況でもひとは笑えると教えて貰えることの、なんと心強く、我々の後ろめたさを慰撫してくれることか。
だがそんな慰めを、戦争を体験してない人間が口にしていいものか。
そんな自問自答をこの作家先生はどれだけ繰り返したのだろう。自身の問いかけにどれだけ打ちのめされただろう。それへの答えはただ誠実に聞き学び調べること意外になかったのではなかろうか。
そうまでして描きたいものがあって、そうして描き上げたものがこの作品だったのだ。
どうあれ、とにかく私はこの 「夕凪の街 桜の国」 という作品を肯定したいと強烈に感じた。
でなければ先に進めないような気がしたし、こうの史代という作家個人一人のその挑戦を賞賛したいし、何よりも作品そのものに心動かされたからだ。
そのときの「おれはこの作品を肯定せねば」という独り合点な感情はだいぶ強烈に焼き付いてあって。
オープニングに、コトリンゴの歌う「悲しくて悲しくて」が流れたときに。「この限りないむなしさの救いはないだろか」という歌詞を聴いたときに。
ああ、これはそういう作品なのだと、観る側としての覚悟みたいなものはあった。
執念のありどころ。というようなものを思う。
映画に限らず諸作品は予備知識とかナシにみた方がなにかと都合がいい。
けれども、視聴前に漏れ聞こえてきた評価に「4年がかりで描き上げたらしい」「クラウドファンディングで資金を募って」「監督は一日の食費100円の生活を続けてたとか」等々、執念を感じさせるエピソードが多く。無意識的にそこんとこへの期待があったかも知れない。
感想を言いづらい映画があれば逆に言いやすい映画というのもあって、それらは監督の情熱が目に見える作品群のことだ。
おれはこの映画でこういうものを表現したいんじゃうおおおおおおーという熱量が伝わってくるよな映画がそれで、抑えようとも溢れ出る熱意でフィルムを蒸着させたような作品に対してはぽんぽん感想が出てくる。それだけ作品としての意図を察しやすいからでもあるし。基本的に私はそういう作品を選り好みする。
そんなだから、開始してからいつまでだかは少し拍子抜けのような印象があったと思う。
それは見終わってからも続いた気がする。
結論から先にいうと、監督の執念はこの作品を現実として現すことに費やされていたのではないか。というところに落ち着いた。
日常というものがなぜ曖昧かというと、意識にとまらない些細な出来事の集積だからだ。
自然とはもちろん不自然でなく、自然体であるということだ。人の創意が感じられては自然ではない。
監督の情念はどこにあるんだろうと最初に感じたけれど、それはおそらく、この作品が自然であるために抑えられたのだ。
この作品は日常を描くことに徹底している。これほどまでに日常を描くためには、既に過ぎ去った時代の空気を再現するためには、意識にとまらず忘れ去られる途方もない量の何事かに意識をとめて、いちいち気を配り、あの頃のあの呉を描くために必要なものを、厳選に厳選を重ねて、確かな筆致で描かなければならないはずだ。
そこには膨大な思考が費やされたはずだ。
それなのに、作品そのものにはそんな痕跡はなく、かろうじて感じられるのは徹底した無私だ。
この監督が費やした情念は、そのほとんどを、この世界の片隅にという作品をこの世に、自然に、描くために、透明に燃やされた。
それほどまでにこの世界の片隅にを「現実に」描きたかったのだろうか。
なぜだろう。
その理由もなんとなくわかる気がする。
この世界の片隅に起きたその物語を、現実に起きたことだと観客に信じさせたく、そして監督本人もそう信じたかったからではなかろうか。
予兆で劇場中がすすり泣いていた。というのは実際んとここの作品だからこそ行き会った出来事な気がする。
大事なのは、目の前に起きた出来事ではなく、『予感』が心に突き刺さったという点だ。
日常という形で、等身大という形で、強烈に感情移入を強いてくるこの作品に散々感情移入した今では、それも当然なことのように思う。
これだけ愛おしい日常が、徹底して破壊されてしまう予兆に泣いたのか。
すずさんという女性と、その近しい人々に起こるであろう災厄に泣いたのか。
どれだけ日常を守ろうと立ち働いても、それを覆い尽くす出来事には無力なのだと思い知らされて泣いたのか。
歴史上の事実であり、もはや不可避の行く末に他になすすべなく泣いたのか。
ただ単に、日本に生まれたからには散々教え込まされる悲劇だから、もはやフラットな感情で観ることが出来なかったというのもあるとは思うけど。
それでも、とにかく我々は、この強烈に、静かに暖かく、しかし速やかに感情移入を誘うこの物語の、目の前の日常がもはや他人事には思えず、そしてそれが壊されることを危惧して泣いたのだ。
この作品から反戦的なメッセージを受け取りすぎると、見零すところが多いと思う。
執念を感じさせる筆致で描かれた日常に、選りすぐられた日々の機微は、すべて架空の出来事で、それに現実感を与えるべく情熱と技巧の集結がこの作品だからである。極論すればヒロシマや戦時中の呉を舞台とした出来事でなくったって構わないはずだ。
歴史的な知識や前提がなくたって、すずさんのあの日常や細やかな可愛らしさは万人共通で心を打つはずだと思う。
だけれどもこの物語は、現実の出来事を敷き、この世界の片隅に絵空事の日常を描き足すことでこそ生まれ得る作品であることは違いない。
この世界の片隅にこんな日常があったと信じたい、という信念や情念や……とにかく、そんなものが根底であり芯となっている作品だからである。
どんな環境にあっても、日常はこんなにも強固だと信じたいのか。
日常はこんなにも楽しいものだと信じたいのか。
この世界の片隅にこんなことがあったかも知れないという物語であり、この世界の片隅にこんなことがあってもいいじゃないって物語でもあり、この世界の片隅にこんなことっだってあったに違いないって話なのだと思う。
こうの史代先生がこのお話を描いたのは、こんな日常があったに違いないと信じていたからだろうし。
それこそが、片渕須直監督の執念や情熱の拠り所だったのではなかろうか。
とにかく、強烈に、こんな物語が、こんな日常が、この世に確かにあったのだと誰かに伝えたかったのではなかろうか。
あるいは、これこそが創作の力なんだと、細やかな機微に共感し、起きてしまった悲劇と、その悲劇の予兆に涙腺を刺激される想像力と、それを惹起させる力こそがアニメーションもしくはつくりごとの力なのだと。
そう信じたからこそ、それを証明したかったからこそなのではないだろうか。
それを観た我々もまた感化されて思うのだ。この世界の片隅に起きたことは、この世界の片隅にもあるのだと。
きっと、この世界の片隅に、すずさんは生きていたのだと。この世界の片隅に、すずさんは生きているのだと。
そう信じたいからこそあんなに泣けたのではなかろうか(オレが)。こんなにも泣けるのではなかろうか(オレが)。
この出来事はそれの端緒な気がするんだよね。
そう思えばこそ、すずさんの呟いたあの一言がまた、強くて美しい言葉に思える。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」
劇場版艦これの感想というか雑想というか。
龍田さんが出るらしいんで100点はもう確定なのだけど。
問題点としては龍田さんが出るだけで100点が確定ならば鑑賞しなくったって100点なのだから別に観る必要はないんじゃないかなというあたり。
先に感想を言えば、ココナッツ料理が駆逐連中の口に合わず笑顔でムキになって改良加えまくってる龍田さんが可愛かったし。後のシーンで椰子の木に登る駆逐連中のサービスカットがあったけど、あれは龍田さんの努力が実ってもっとココナッツ料理作ってもらおうとしてるって解釈でいいんですかねー。
あとあの新型深海棲艦と差し違えたシーンの「これ、天龍ちゃんが使いたがってた艤装なの。痛いでしょう?」てスクリーンに映らなかった諸々を察せさせる一言はあれ……おかしいな。4DX上映でもないのに……なんでおれの両頬がこんなに濡れているんだ……て気分にさせられたし。劇場オリジナルの龍田改二はあれ先行サプライズ公開ってことでいいんですよねー。
あとは深読みかも知れんけど、龍田さんの薬指がちらちら光を反射させてるシーンがあったけど、アレはカッコカリ済ってことでいいのかなー。どうなんですかねー。
*溜息*
ネタバレはこのへんにしてこの行付近からネタバレに配慮なく感想を書いていきます。
最初に言える一言は「うわすべり」です。二言目があるとすれば上っ滑りです。
全体として決して悪くはない映画だったーということを前提としても、細かいシーン大きなシーン含めて映像がおれの心を滑っていって感じ入ることができない。
戦闘シーンの迫力を褒める声はあれども、その迫力も「その戦闘の意味」を観覧者が理解できていなければ音のない花火みたいなもんです。
その意味において「なんか特定海域に異常が発生してるから司令官不在の状況だけど司令官代理の独断において全勢力注ぎ込み玉砕覚悟で原因究明しようぜ!」と言われても。にんともかんとも。
もちろん、起きている異常を放置していてはこの前哨基地を放棄しなくてはならなくなるーという実利的な作戦目的も含まれるわけだけど、それにしたって「味方を一人も倒されることなく敵全員を殲滅しなければならない」という困難な勝利条件が明かされた後に行われる勢力戦です。覚悟すべき損害に対して軽率過ぎやしないかと。
議論や葛藤が尽くされていないのではないのかと。例えば大変意味の重い損害を回避し一時撤退を決め込む作戦だってあったんじゃなかろうかとか。或いは、そこまでして守らなければならない大事な拠点であると観覧者に開示するだとか。そうしたドラマを取りこぼしちゃいませんかね。
(そんな大事な拠点をほっぽり出して提督がどっか行ってるわけだけど)
意味合いとして大きいのは察せるんですよ。
赤く染まる海の中心点は、多くの艦が沈んだ鉄底海峡。そこには私たち艦娘の起源があり、行く末があるのかも知れない。
「自分自身が何であるか。艦娘とは何なのか」という問いは彼女らにとっても、提督である私らにとっても大きな疑問であり、その答えへの衝動はそりゃあ例え血路を開く覚悟で、どうしようもなく、問い糾したくもなるかもしれません。
んでもそのへんのフォローがとくにはなく。私にとっては「なんか特定海域に異常が発生してるから司令官不在の状況だけど司令官代理の独断においてこの戦争そのものの最終目標から遠ざかっちまうかもしんねえけど全勢力注ぎ込み玉砕覚悟で原因究明しながら理由はわかんねーしそれでどうなるかはさっぱりわかんないけどせっかくだから異常の影響を受けないこの吹雪をオレたちみんなの命賭して投げ込んでみるぜ!」程度にしか映らんかったわけです。
全編にわたって、大きなシーン、細かいシーンでそんな感じやねんな。
事の重大さのレベルがわからない。どのくらい重大なのかだけでなくどのくらい些事なのかもわかりづらい。
小さいところではダメージ表現だよね。深海棲艦はどっかんどっかんはじけ飛んでるけど、一方で艦娘はおでこから血を流して片眼が塞がれるくらいでそれがどんなダメージでどれくらいの深刻度なのかがわからない。霧島や鳥海の眼鏡が割れたらば「ヤベエ修復材もってこい!!」て気分にはなるけど。
お話の中心である如月の深海棲艦化だってそうだ。彼女と睦月当人にとっては大きな問題だろうけども部隊及び艦娘みんなにとってどのくらい深刻な話題なのか。沈んだはずの仲間が帰ってきたんだからもうちょい騒ぎになってもええんちゃうのか。だって沈んでもまだ帰ってこれる可能性があるってことだぜ。まだ沈んでない娘にも、僚友を失う可能性を持つ娘達にとってもすげえニュースじゃないのか。それとも内輪の復員なんであんま話題になってないのか。あと加賀さんも帰ってきた組なのになんか全然平気やんそういう先例があるんやから睦月ちゃんもそこまで深刻ぶらんでもええんちゃうんてゆか赤城さん加賀さんそういう希望を持てるような話は吹雪やのうて一番悩んでる睦月にしたれやみたいな。
「以降、この事案を一級機密とし口外を禁じる」と宣言はしたはいいものの「D事案ですか」「D事案ですって?」「D事案らしいわね」ってみんな知っとるやないかーい同僚にもべらべら喋っとるやないかーいという拍子抜けもあるし。艦娘は基本構造が女子でお話好きだから口に蓋ができないのだ! というポリコレに触れそうな話でもあるかもしれませんが!
吹雪ちゃんが特殊な艦娘だったというネタばらしもなあ。ははあ。うん。なるほど。だからそれで……え、なに? て感じだし。
とにかく細かいところ細かいところ細かいところまでそんな感じで大きなところも大きなところもそんな感じだった。
半端なシナリオで迫力の戦闘シーンを描くくらいなら同じ迫力の戦闘シーンでもってゲームの方のイベントのリプレイでも映像化した方がよかったんじゃないですかね。アイアンボトムサウンドのイベントなら当時のトラウマを呼び起こす提督もでて感情移入もひとしおだったかも知れないじゃないですか。
と、放言するほどには作品そのものには悪い印象はもってなかったりもします。
評価できる部分はあって、それは艦隊これくしょんという作品そのものが持つテーマへの言及だ。
臆面もなく言葉にまとめると
「どれだけ戦争を繰り返そうとも、戦いに望んだ人々は常に希望の為に戦ったのであり、それを覚えて、感じ取ってくれる人がいるのならば、繰り返しの果てに意味が生じるのかも知れない」てことで。
それは二次大戦という悲劇の、或いは渦中にあった艦船の名前を借りて表現された艦隊これくしょんという作品が持つかもしれない意義でもある。
戦争の中心にある兵器を擬人化し、感情移入することで、彼女らが中心にいた戦争というものを知るのである。
……そういう話でいいよね?
違ってたらちょっと恥ずかしいんですけど。
そういう視点でみたら、吹雪の「ずっとここにいなくたっていいんだよ」て一言もわかりやすくなる感じがせえへん?
だからもうちょっと。こう。
吹雪ちゃんには「違うよ。私が、あなたが、あのとき思っていたのは、怒りや、恨みや、後悔じゃないよ。守りたかったっていう大切な人の記憶と、帰りたいっていう幸せな場所への思いだよ」みたいに、わかりやすく言うてくれても良かったんじゃないですかねー。
単に私がそういう台詞が欲しかったというだけかもわかりませんがー。
お話の焦点がいまいちあわず、ぼんやりした印象になってしまった原因のひとつが、大きく取り扱われた如月のエピソードだと思う。
今劇場版とのテーマにはずいぶんと寄り添ってるエピソードなはずなんですよ。なぜ如月が帰ってきたのかというとそれは睦月ちゃんへの執着な訳でしょう。
守れなかったという後悔が彼女を蝕んでいたんだけども一方でそれは彼女が守りたいものへの思いの強さでもあると。そうした感情の濃さ故に彼女たちは悲劇を繰り返してしまうわけだけれども、しかしその想いそのものは否定なんてできない。
その割にはなんかこう……本格的に喜んで悩んでるよう表現されたのは睦月ちゃん一人だけにみえたし。先にも書いたけど、沈んだけど帰ってこれた存在てのが実際に命晒して戦う娘連中にとってどれだけ福音であるかを思うと。どうにも宙ぶらりんだし、そこが浮いてると艦娘の死生観もうすぼやけちゃうよね。
例えばさー。
「龍田って、如月と同じ部隊だったっけか? やけに喜んでるよな」
「ウチの末妹ちゃんは相変わらず鈍感だね。一度あることは二度あるかも知れないじゃん?」
「なに言ってんだか全然わかんねえ」
「……天龍のことクマ。天龍がここの補給線の護衛艦やってて……龍田がそれの『後任』としてやってきたのは木曾も知っているはずクマ」
「ああ……そうか。そっか……」
みたいなさー。あるいはさー。敵軽巡洋艦と肉薄するも一瞬動きが止まりそれのせいで逆襲された龍田さんがさー。
「おばかさんだなあ、私……ちょっとだけ、このコが天龍ちゃんなのかもって思っちゃって……まちがえるはずないのに。どんな姿になってたって、私が天龍ちゃんを見間違えるはずないのに……」
「龍田さん……? 龍田さーーーーーーーーん!!」
(降りしきる雨)
みたいなさー。
ところでなんで私はこの劇場版でそんなに天龍さんを沈めたがるんですかね。別に龍田さんと違って冒頭すごい目立ってたよね的なことで逆恨みしてたりはしてませんけど。
ていうかむしろ龍田さんなら「それは、私が、天龍ちゃんだったコを沈めなきゃいけないってこと……? そうなの……ごめんなさい。ちょっと席外させてもらうね?」「龍田さん……やっぱり、悲しそうでしたね」(え。なんか喜びに震えてるように見えたけど)(ヨダレ垂らしてなかったかあの女)みたいなドSっぷりを発揮しそうな気もするけどそうでない気もする。
いっそのこと如月ちゃんは最初から深海棲艦姿で登場してたらどうだったでしょうか。
どうみても如月ちゃんであり、必死に呼びかける睦月。それに応えたのか攻撃を逡巡する姿さえみせる。しかし無情にも砲火にさらされ睦月の目前で再び沈んでしまう。
挙げ句、深く鬱ぎ込んでしまう睦月。目に余るその姿に長門自らが「想いの強い艦娘が沈んだ際、深海棲艦として蘇る事例が確認されている。そして、それを撃沈することにより再び艦娘として復帰することもある」と機密を明かし希望を持たせようとするも「そんなの、ただの繰り返しじゃないですか! 私達の戦いは一体なんなんですか!? 私は、あと何度、どれだけ如月ちゃんが沈むのをみなくちゃならないんですか……!」と叫び、その疑問は艦娘全体に波紋を投げかけてしまうと。
そうすりゃ話は早いし、鬱展開ヤダーという向きにもきっちりエンドロール後のアレで対応。
早くなった展開のおかげで各キャラの描写に割く時間が増えるし。ていうかモバマスじゃねえんだからモブ同然のキャラをファンサービス目的で無闇にカメラに写すよりかは数は減れども登場する艦娘に登場したなりの意味を持たせてやった方がいいんじゃねえかなと思うモバマスじゃねえんだから。
艦娘全体が疑問を持ち答えを探すならケンカめいた衝突だってあるでしょう。
無闇な原因究明よりも、艦娘を一人も失わず深海棲艦全滅という至上目的達成の為に拠点を放棄してでも一度引くべきだとの慎重論を主張する加賀。
それを消極的姿勢だと受け取った瑞鶴は、加賀が深海棲艦と化していた噂を聞きつけ「原因を明かされたくないから消極的になっている」と早とちりをし糾弾する。
からの「私は、あんな想いを誰にも知って欲しくないだけよ」ときて「……ごめん。昨日は、あんなことを言っちゃって」という展開。
そうやって波紋が広がっていくならばそれを取りまとめる者の責任も増すでしょう。
提督不在を埋める代理人であり、連合艦隊旗艦である長門が迫られる決断。その苦悩に艦娘個人としての思いが加味されるならば、提督不在というなんか視聴者への言い訳めいた配慮も、その位置に長門を据えるためという物語上の必然が生じるんじゃないですかね。
「往こう。そこに私たち艦娘の起源と行く末があるのなら、私はそれを知りたい。そしてそれが私たちが戦う理由の糸口となるならば、皆の為に、連合艦隊旗艦として知らなければならない」
「あらあら。ずいぶん危ない火遊びね」
とかなんかそーいうさー。
そういう悩みがあるならばそれぞれに自ら答えを見付けにゃならんわけですよ。
上の言うことに無私の如く従います大義の為の礎となります的軍隊気質な姿勢もいいけれど、苦悩がありながらも、各々に答えを見出し、自ら、決然と、立ち向かう姿だって凜々しくも健気じゃないですか。
とかどうとかで、もう結果の出たものを後出しじゃんけんみたいな論調でほじくってもしょうがないんだけど。
先に言ったとおり、言うほど悪い作品だったとは思ってません。もっとも個人的な不満をあげるなら、大和さんが砂浜にあのミニスカで無造作にぺたんと座ったところで、それはまあ艦娘だからおしりが濡れたりすることにもはや何の意識も払わないのねという自然さでもあるかも知れませんがそれにしたって立ち上がったときにおしりをぺんぺんと叩いて砂を払う仕草くらいは是非ともほしかったおれはそういうフェティシズムをアニメという映像作品に求めているんだとかそれくらいです。
どのみち龍田さんが出た時点で100点だしな。
世界樹5中間報告。
・今んとこ14階をちょっと歩いたくらい。
NPCのネクロマンサーが行方不明になったということで街中が不安げに騒いでるんだけど森田一義風にいうところのDDE。
・毎度のことながら世界樹のNPCはプレイヤーとの距離感にもうちょい気を配った方が……。
・なんかそういう感じの押しつけがましいストーリー部分を隔離するために新世界樹があるんじゃなかったっけ(誰もそんな話はしてない。
・古式ゆかしいRPG好きと、TRPG好きとを混同しているあたりが世界樹のこのへんのテキストの原因になってる気がする。
・到達層が14階と言うことでいつも通り25階で終了ならば折り返し地点を過ぎたくらい。
今のところだいぶ楽しいを大前提として不満ばかり書いていきます。
・なんで世界樹ってヒントではない直接的な回答を与えて危機という楽しい状況をプレイヤーから奪ってしまうのだろう。
・料理はまあいいんだけど、どの材料でどの料理が出来るのかわかりづらいのが。貴重品欄から確認は出来るけど。
料理のレシピ一覧をメニューに用意しろとまでは言わないけど、せめてアイテムの説明欄に材料を書いてくれていれば。
・宿屋の娘から渡されるのもなー。所持数限界だといつまでたっても渡されない。渡されたと思ったら今は別に欲しくない材料までどさりと渡されてアイテム欄圧迫というのも正直頭が悪い。
・食材棚、みたいなメニューがあって、そこに日数経過とともに蓄積されてって好きに取り出せる。
日付が経過しすぎて悪くなり始めてるやつは宿屋娘が自主的に消費(ストック数の限界)みたいにしてくれれば丁度良かったんだけど。
・習得してるスキル一覧をステータス画面からみせてください。
採取系スキルとかユニオンスキルとか誰に何を持たせてたか確認とかめんどくさいです。
・やっぱプレイヤーキャラにボイス要らないというか。
想像に指向性を持たせるというよりかは幅を狭めるだけのように感じるし。
台詞のバリエーションの乏しさは単調なイメージだし、ちぐはぐな台詞も多いし。
効果音としての音声の強さは認めるところなんで、「てい」「たあ」「どりゃー!」みたいな掛け声とかダメージ時の悲鳴とか。
台詞のない感嘆符疑問符みたいなものだけでいいのに。それだったら喜んで使ってたと思うんだけど。
・NPCのボイスもそもそもの距離感からズレてるんで。まあ。
・まあ楽しいんだけどね。
特に13階・14階はざくざく死んでは戻るの繰り返しだし、新しく店に陳列されるアイテムもおおむね高価でそれなりに考えて買わなきゃならないのもいい。
鍛冶も蓋を開けてみるといい塩梅で、FOE撃破のご褒美が増えるのは嬉しい。
・そういやNPCの、攻撃力はそこそこだけど体力がとにかく多いぞという調整も見事にツボにはいってると思う。
長期戦な中にファンブルが起きたら負ける。その前にガス欠を起こしたら負ける。だからはファンブルが起きる前に火力で押し切れたら勝ちーという設計は、火力も絡め手もそれぞれに意味が生じて楽しい。
・戦闘に注文がないでもなく。
個人で完成するスキルほど強く、強力やパーティの組み合わせが必要なスキルが相対的に価値が低くなってるのは如何なもんかと。
まあそのへんはいいか。
・今のところをまとめると。
中身はいいけど雰囲気作りには総じて失敗してるけども中身がいいのでいいです。みたいな。
・ところで。
日向先生の描かれる巨乳キャラって顔が巨乳キャラじゃなくない?
・こっから先は性能と成長傾向からなるパーティ妄想。
・善悪の概念もないままずっと墓荒らしして生きてきましたーというのを主人公にして。
そんで死に方だとか死後とか死体とかに興味ある連中で固めてたらこんな階層にたどり着いた。
妄想主体かつ攻略情報封鎖で遊ぶことの醍醐味みたいなもんだと思う。
・二つ名。
TRPGとCRPGの混同……はともかくとして。自由記入欄は大好きなんで喜び勇んで考えるにせよ。
凝りすぎても結局自己紹介みたいになって野暮だし、休養の度にいちいち入力し直すのも面倒になりそうだし。
デフォルトで用意されている二つ名の漢語表現部分だけをいじくる方向にした。
・アノロ
揺籃のネクロマンサー
揺りかごから墓場までというか。墓場が揺りかごでしたみたいなキャラなので。
ところで死術使いじゃダメだったの?
死霊は期待してたほど攻撃要員にもターゲットをそらす役目にもなりづらく、かといって毒爆弾も炎爆弾も準備に手間がかかり使い勝手がいまいち。
というところで無慈悲な盾を覚えさせたら、TP3でダメージを吸収できて回復いらず。となったので、ザコ戦でもダメージのかさむ面々にとって欠かせない存在に。
といっても隅っこで死霊呼んでは死霊を呼んでなので存在感そのものは希薄。
二つ名は「死霊に属性攻撃が乗ればチェイスの手数が増えるよな」と死霊乱舞目当てで取得したのだけど、今のところ無用の長物だ。
といって、石塔絞りもスキルポイントが重いし、前提の二つもそれほど魅力を感じない。
主な役目である防御スキルはベーシックの時点で揃うし、一度休養して使い勝手を試すべきかもしれない。
・あるは
世界樹の迷い子
二つ名はデフォルトのちょいいじくりで。と決めたけどひとまず例外。
遊んだ世界樹に必ず出てはふらふらしてるキャラなので。
バステ付与も列攻撃もしっかり機能しているけどもひと味足りない。
地味な立ち位置はベテランな水先案内人としては相応しくはあれども。
飛沫の鎌と購いの血を習得するもスキルポイントの重さから効力を発揮し切れておらず、今後存在感を発揮できるかどうか。
先制兵装にポイントを振っておけば麻痺付与の使い勝手は良くなるだろうけど、ボスやFOEで死に気味になるスキルに割くのはちょっと度胸が。
状態異常を与える度に強くなるスキルは魅力的だったものの、勝手に麻痺を与える死霊がいる以上は食い合わせが悪いと断念。
事実上、バステばらまき役しかないわけだけど、従来作からずっとバードやカスメ、プリンセスとサポート要員だったので設定的には正しいか。
・トトツカ
叩扉の拳闘家
勇敢に戦死することで天国に逝けるのならば、勇敢に相手を叩き殺す行為はより多くの者を天国に導くことに繋がるので宗教家としては正しい。
というキャラの二つ名……殴る、叩く、天国……ノッキンオンヘブンズドア……ドアノッカー……? 二つ名でなくみんな勝手な職業を名乗る感じにするならドアノッカーがいいような気もするけど、それ他キャラ全員考えるのしんどそう……デフォルトをいじくるにしても、扉叩……うーん。
漢語的表現の造語って説明したい感が前面に出すぎててダサいんだよな……とか悩んでたら、「叩扉」なんて言葉があんのね! 誰かを訪ねることだってさ! 表意文字文化万歳!
とかで二つ名に関して一番影響を与えたキャラ。
ワンツーの時点でとっくに完成してて強い。
「獣耳キャラがいるのに一人しか使わないとか何考えてんの?」という理由だけでセリアンセスタスにしたけど、結果として低LUCが異常付与率を低くして、延々ワンツーで殴り続けられるキャラに仕立ててるのが良いのか悪いのか。
「天国に送れると信じて殴り殺す」という目的と結果の乖離っぷりが「バステ付与を目的として殴り殺す」という一致してて丁度いい気もします。
・レットレゥ
死に焦がれる導師
死んだ恋人に再会したいが為に死後の世界に強烈に興味をひかれるとかそういう設定なんで。死に急ぐとか恋い焦がれるとかそういうのにかけて。
属性攻撃は単純に強いし範囲攻撃はお役立ち。
別に何も工夫せず強い……けれど、二つ名習得時にスキル振りをミスったか「ライフドレイン」も「アンチマジック」も「マジックシールド」も「アンプリファー」もあんま使わねえ。ライフドレインのユニオンゲージ上昇にひかれて注ぎ込んだんだけど……。
おかげで攻撃力が敵の強さに追いついていない感じ。
根は真面目でコツコツと。だったけど、周囲の連中にある程度の共感が芽生えてきて、協調性を得る感じに方向を修正しはじめたーみたいな妄想でいいのかな。
・テンゼン
漱石枕流の武人
戦場で死んでこその武人。と言い張るわりになんだかんだ言い訳たてて生き延びてる実はヘタレ。という設定で要するに「ああいえばこういう」な武人。
かっこよくみえても意味が微妙な四字熟語ってあるよねーそれを付けたいなーと検索した結果にこういうの。
刻船求剣とどっちにするかまよった。
単純な手数でゴリ押せる強さはあれども、多刀流に進んだのでどうしても死にやすい。
死にたがりかつ刀マニアという設定にしたからにはこっちに進まざるを得ないだろう……というところではあるのだけど。
ワガママで押し通すキャラと思いきや、鎧抜きでチェイス着火+飛沫の鎌の下準備をこなしたりパーティプレイもこなせる。
我が強く屁理屈を捏ねがちな一方で、それなりに理屈の通じる人格なのだろうか。
・トリニダート
絵空事の剣士
物語の騎士に憧れて世界樹のてっぺんを目指すキャラなので。思いついたもののなんとなく据わりが悪い二つ名なので変えるかも。
平均的なアタッカーながらも今作のチェインは活かそうとするとかなりパーティ編成に制限がかかる感じなので、なかなか本領発揮できない。
鎧抜きや雷神拳など着火手段はあるものの、どちらもサブな攻撃手段なので、メインを無視してチェイン役に走るのも本末転倒であるし。
とりあえず盲目付与をちくちく。一転してシャーマンのマルナコさえいれば着火手段に困らず生き生きと暴れ回れるので彼女と仲がいい……というよりももはや依存している勢いでは。
いったん休養させて、乱れ突きからのレゾナンス型に一気にSPを割くかどうしようか迷い箸。
・マルナコ
天命を明かす巫女
どうやったら死ぬか、なんで死んだか、に猛烈な興味があり、死体を弄るのが好き。=死因を探るのが好き→寿命・天命を明かす。
序盤は存在意義が微妙だったものの、二つ名を得てからは味方にバフを撒いているだけで回復効果まで発生させて何してても強い。
おまけに属性付与からの乱舞+チェインまであわせれば瞬間火力大向上で攻撃にまで参加できる。優秀。
それなりに高潔な目的意識と相応の技術を持っていたにも関わらず、その趣味のせいで爪弾きにされていたのが、ついに自分を認めてくれるギルドに参加できて何かと開花してるのでしょうか。
まとめてみるとパーティー内の関係性が改めてみえてくるね。
アノロ 存在感は薄いけど居なくなるとみんな困る。
あるは 誰とでも相性がいいけれど目立つ程の存在感はない。
トトツカ 強いけど誰といてもそんなに変わらないというか話があわない。
レットレゥ 強いけどちょっと存在感がない。
テンゼン 意外と話せる。
トリニダート 相性のいい・悪いがやや激しい。
マルナコ いいやつ。
バーナード嬢曰く。の書評のよな神林しおりへのラブレターのような。
創作上の文学少女に苦手意識がある。
ここでいう苦手意識ってのは「職業ものマンガは実際にその職業に従事している人間にとってはちょっと読みづらい」話に通じる気がする。現実と創作との差違にいちいち引っかかってしまう。これを書いている人間は古書店手伝いだの図書館勤務だのを経験してて現実に存在する読書家だの愛書家だの書痴だのと知遇を得てたりしたので。なんかこう。創作上の文学少女に対して「なんかちがう」という違和感を覚えることが多い。
現実と創作は違うんだけどさ。なんかちがうんだよね。
私が遭遇した愛書家は……おっさんばっかりなんだけど。まあおっさんの話は別にいいや。
創作上の文学少女の思いつくありがちげな特徴を挙げていけば、引っ込み思案で、人見知りで、対話が苦手で、苦手でなくともどこかズレてたりして、身を挺してでも本を守り、運動音痴で、世知に疎く、些細なことにも感動を得て、範疇の外にある専門家を強く尊敬して、本を読むだけじゃ知らなかった世界とかいいだすとああもう最悪だ、黒髪ロングで眼鏡装着の有無は置いとくとして。
思いつきで列挙しただけなんで特定のキャラを指したわけではない。
「お? 彼女のことか?」と連想するところがあった人に言いたいけど決してその娘のことではありません。
なんかこう。なんか違う。生々しさがたりない。
なまなましさが。
不思議だったのは、実際に愛書家だったり活字中毒だったりして、私なんぞよりもはるかに読書をしているプロ作家な人々が、なんで『文学少女』を創作したらば「こう」なってしまうんだろうという点だった。
まあ、積極的に「おーれーのー理想にあう文学少女はどーこーじゃー (蜘蛛みたいに手足を伸ばし薄暗い図書室をサーチライトみたく眼光をびかびかさせつつ這い回っている姿を想像してください) 」と探し回ったわけでもないんで偏った疑問ではあるし、そもそも私と作家先生の思い描く理想の文学少女が一致してないのはむしろ当然である。
なので「おれのかんがえたさいきょうのぶんがくしょうじょ」みたいなものを考えたことはあった。
まず独善的な性格は欠かせないねー。そんで自分の知識よりも書物のそれを重んじている気配があってー。こっちが話かけてるのに活字から目を離そうとしない具合でさー。
そうやって考えてみはしたものの、回答らしきものにはたどり着けなかった。
私では看破できなかった要素があったのだ。
理想の文学少女になまなましさを与える要素。
そしてそれは作者の理想故に排除されてしまうものでもあった。
創作上の文学少女が持ち得ないもの。
神林しおりはそれを持っていた。
バーナード嬢曰く。を読んだきっかけはこの強烈な書影だった。
うーわーおーしーえーてーほーしーいー。
内容は言ってしまえば読書あるあるネタではある。或いは赤裸々な読書体験。その精度の確かなこと。
しかしバーナード嬢曰く。は、そのテーマそのものに、読書家を自認する人々が意識的に、あるいは無意識に忘れようとしている感覚を剥き出しにして置いてある。
それは
読書はかっこいい。
この事実である。
そうなのだ。読書はなんかかっこいいのだ。言ってしまえばそれは虚栄であって社会全体がもつ知的者層へのコンプレックスを下敷きとした虚像だろうから、翻って活字離れだの出版不況だのの病根でもある。できればなくなってくれた方がありがたいイメージではある。
けれどもしかし、事実として。
読書はかっこいいのだ。
どのくらい笑い話でどの程度に実感が伴う話なのかわからない与太話に「ロックシンガーがバンドを/ギターを始めた理由の九割は『モテたいから』である」というものがある。ついでに「バンドを/ギターを辞めた理由の七割が『モテなかったから』」という話に続くんだけど。
読書家だってスタート地点はそれと一緒だ。断言してもかまわない。読書家が読書家になるきっかけはなんかかっこいいからである。
もちろん、読書という体験はただのファッションに収まるものでは決してない。きっかけだの入り口だのはどうであれ、どこかのポイントで書物によって人生ひん曲がる衝撃を与えられたからこそ愛書家は愛書家なのだ。しかしそれとはまた別に、読書家を自認して以降も、あるいは読書という趣味の素晴らしさを体得したからこそ、読書家は己の理想的読書家へ向けて生活を、己の人生そのものを少しずつコーディネートしていく。
小中学生時の図書室の読書カードを何枚も埋めて悦に浸り、古書店で本を求め費やした時間を数え、図書館の貸し出し制限いっぱいを抱えて帰り、かばんに文庫本がないとなんだか不安で、満員に近い通勤電車で少し姿勢に無理をして文庫本に目を通し、読書を終えて喫茶店をでた夜の暗さに満足し、映画だのドラマだので引用される出典を我先に当てて得意になったり、なんかこーそんな感じで。
けれども読書は極めて個的な体験だ。いっそ孤独な作業でその姿には好ましい静けさがあると谷川俊太郎も言っている。
そこにかっこいいだとかいう外的視線は不純物に他ならない。勉強だとか教養だとかを求めての読書さえそれは純粋でないとして忌避されたりするとホルヘ・ルイス・ボルヘスも語っている。
それでも読書家は、他人の目を意識して読書したことなんざねえよと自身に言い聞かせねばならない。
しかし、目的を達成し続けていくとその末に、最初の動機そのものに立ち戻らねばならないときがくるみたいなことを三島由紀夫も書いていた。
立脚点はその後の積み重ねを全て支えるポイント故に、なかったことにはできないのだ。
ごめん谷川俊太郎もボルヘスも三島由紀夫もたしかこんなこと言ってた気がするなー程度の根拠で書いてます。
読書は孤独な作業であって、文章を通じた自意識との対話だ。
どんな本で夜を徹したか。どの本を壁に投げつけたか。そのリストは自己の証明に他ならない。
「最近なんか面白い本読んだ?」と聞かれたときに身構えない読書家なんてたぶん存在しない。
読書と自意識とは切り離せない。
読書家は首輪をしており、その鎖の反対は同じく首輪をした自意識という怪物に繋がっている。
その怪物はこんな顔をしている。
いやでもほんと。
怪物こと町田さわ子ことバーナード嬢ことド嬢は、本読みのそうした相克を、なんとか直視せずに済まそうとしていた爆弾だの断崖だのをあっさりと、読書家でないがゆえに飛び越えている。
彼女が常識のように呟く「だって読書家ってかっこいいし」「でも読書ってめんどくさいよね」というそれは諸々積み上がってる立脚点に直接ケリを入れるような言動であるのに、彼女は日々それを行っている。その怪物っぷり。
恐れみよ。これが怪物だ。
そして神林しおりはその魔物に日夜立ち向かっているのだ。
物理的に。
これら神林しおりの勇姿は、勇敢な姿ではあるけれども同時に愛書家にとって当然の態度だ。
書物を愛しているのだから、それを軽んじ結果のみを求める者ならば断罪して然るべき? そうかもしれないけれど、少し違うのだ。
愛書家と怪物とは同じ鎖でつながれていると先ほど言った。
神林しおりは、町田さわ子 の読書態度を排撃しているようにみえて(事実その通りだろうけれど)、刀鍛冶が燃える鋼から不純物を取り出すべく槌を振り下ろすのと同じように、町田さわ子という自身の内側にも通じる怪物を叩くことでより純粋な、己自身が理想とする愛書家に近付くべく戦ってもいるのだ。
神林しおりだって完璧に純粋な愛書家ではないのだ。SF文学マニアで、休み時間を常に図書室で過ごし、電子書籍への移行に抵抗を覚え、一人旅の友とする本を楽しげに選び、本を買うために静かな喫茶店で働きながら客のいない寸暇にエプロン姿で読書に耽る黒髪ロングの ― ― てオマエ完璧だな。完璧じゃねえか。まあ完璧にみえるけど、それでも神林しおりも完璧に純粋な愛書家ではないのだ。
この本を薦めたら変に思われるのではないか。この本を読んでいたらオタクにみられるのではないか。
他者の目を気にし、そして他者の目を気にて読書をしてしまう自分自身に、ときおり苛まれているのだ。
でなければこんな魂からくるような叫びをあげられるものか。
なんねーよ! てゆーか他人からどう見られるかとか意識して読書すんな!! そんなん気にしてたらどんな本に対しても読者層を勝手にステレオタイプ化した挙げ句「私はあえて一歩引いた距離感で読んでます」みたいな保険かけたつまんねえ読み方しかできなくなるんだよ! 人に影響与えられる本っていうのは毒になろうとも薬になろうともそれだけで貴重な財産なんだ! 「イタイ」とか「恥ずかしい」とか思われようが読了後生き方が変わるくらいどっぷり作品世界に浸からないと濃厚で価値のある読書体験は得られないんだよ!!!
ぶっちゃけ泣いた。
泣いた。
そうなんだよなー……おじさんも、本を読むのならば常にその本が人生観を変えてくれるものだと期待しながら読むべきだとか思ってるし、未だにねー。映画館でさー。予告が終わって本編開始前のスッと暗くなった瞬間に、ああもしかするとおれはこの映画を観て人生が変わるかもしれないとかねー。思っちゃうんだよねー……。
まあおっさんの話はいいや……。
神林しおり嬢本人の実体験からくる叫びだよねコレ。論拠は敢えて用意せず断言するけどさ。
トラウマめいた過去の出来事なのか、それともこれまでの蓄積で淀んだおこりなのかはともかくさ。実体験だよね。
その叫びをモロにうけて、涙腺に思わず打撃をもらいながら悟ったわけですよ。
ああ。ここにおれの理想の文学少女がいる。
おれの理想の文学少女はここにいたと。
私自身が理想の文学少女を思い描きながらも気付くことができなかった大事な要素であり。
創作上の文学少女が、創作される存在故に、作者により排除されてしまう、架空の文学少女に生々しさを付与する要素。
それは自意識だったのだ。
読書は決定的にかっこいい。読書家は読書が好きであり、どれだけ否定しても、読書をしている自分も好きなのだ。
多くの読書家がそれと立ち向かい、可能ならば排除し、解放されたいと時に強く思う要素、それが自意識だ。
だからこそ、読書家が描く理想的な文学少女は、純粋に読書を愛し、自意識から解放された、架空の存在らしい美しさを持ち……生々しさを欠落させていたのだ。
バーナード嬢曰く。には、読書家と自意識の相克が、神林しおりと町田さわ子という姿を得て描かれている。
或いは、理想と現実との調和を志す話でもある。たぶん。
施川ユウキ先生も狙って並べたのではなく偶然の産物だったんじゃないかなー。どうなんだろ。もちろん町田さわ子という怪物を生み出せた時点で約束された勝利という気はする。
神林しおりのこの叫びをぶっつけられた町田さわ子は、その後に少しだけ読書姿勢が変わることになる。
基本的な態度は変わらないもののけっこうちゃんと本を読むようになる。あれ。ヤベ。もしかしてサワコちゃん今のおれよりもちゃんと読書家になってるんじゃね……? と思えるくらいに。
そりゃそうならざるを得ないだろう。
思えば、読書家を志す町田さわ子にとって神林しおりとは理想の存在だ。それが目の前にいるのならば自然と変わらざるを得ないところはある。
少しずつではあれ町田さわ子は理想に近付いていく。
一方で、神林しおりもいつまでも純粋では居続けられないのだ。正確には、純粋を求め続けるのは不可能に近い。
自意識に自覚的にならざるを得ず、それなりに折り合いを付けていかなければならない。
その過程に、目前に、自意識を擬人化したような存在として町田さわ子がいる。その頭を時にはたき、時にベアクローをかましながらも、時に「……まあ私もそういうところがあるしな」と態度を軟化させたりする。
自己規範が強い故の不寛容という自縄自縛が、町田さわ子によってほぐされていく部分がある。
そうして神林しおりは現実だとか自意識というものを受け容れていく。
なんかの映画で言ってた神話なんだけどさ。
人間はもともと二人で一つだったのに、なんかのきっかけで別々の体に別れちゃったんだってよ。それでも元通り一つの存在になりたくて、自分の欠けた部分を埋めてくれる誰かを今でも探してるとかいう話。
まったくロマンチックな話だぜ。
こんな妄想で遊んでます世界樹の迷宮5。
死んでいるひとはたくさんみてきたけれど、生まれてきたばかりのひとはみたことがない。
だから自分が生まれたばかりのときがどんなだったか、ちょっと想像しづらい。想像したこともあんまりない。だけど、漠然と、 土のなかから這い出してきて、そこに通りがかったジジーに拾われたのだと思っていた。
虫も草もキノコも土から出てくるのだから、筋道の通った想像ではあるけれど、多少は物事に詳しくなった今ならそれがハズレなのだとわかるし、ジジーがいわゆるお父さんお母さんの代わりに自分を育ててくれたのもわかる。
それでも、墓荒らしが悪いことだとは今日になるまで知らなかった。
ジジーがまだ生きていた頃でもだいたいお腹が空いていた。
このままずっとお腹が空いていたらどうなるのかとジジーにきいたら、「棺桶のなかにいる連中と同じになる」と言われた。それが悪いことだとはあまり思えなかったけれど、お腹が空いているのは気持ち悪いことだったので食べられるときにはなるべくご飯を食べた。
頭と喉とお腹が痛くなって動けなくなったとき、どこからか毛布や苦い薬を持ってきてくれるジジーに、ずっとこのままだったらどうなるのかときいたら「棺桶のなかにいる連中と同じになる」と言われた。
それがイヤなことだとはあまり思わなかった。
というよりも。ベッド代わりの棺桶で毛布にうもれながら、このままお腹も空かず、暑さも寒さも、痛さも苦しさもなく、ずっと眠っていられるのなら。それはとてもいいことのように思えた。
いつかそうなるのなら、はやくそうなってほしい。
だけど今はまだその日ではなくて、そのうちそうなる日のための準備をして過ごしているのだろうと、そう思っていた。
だから、ジジーが死んだときもそんなには悲しくなかった。
朝起きて、日が高くなってもジジーは目を覚まさなかった。そうか。ジジーの番が来たのか、と眺めていたら、ジジーは寝転んだまま、イヤな臭いをまき散らしながら、どろどろに溶けながら、たくさんの虫や小さなケモノにかじられながら、棺桶のなかの人と同じになっていった。
悲しくはなかったけど、おいてけぼりにされた気分にはなった。それでもふてたりせずにちゃんと棺桶を用意して、お墓を作ってあげたのは、ジジーに何回も言われていたからだった。
「オレが死んだらお前がオレの墓を作れ。そのためにこうしてメシ食わせてやってんだ」
なんでそんなにしてまで自分のお墓が欲しいのだろう。とは思わなかった。それはそういうものだと思ってた。
でも実際に、誰かのお墓を作ってみると。たしかに。
このまま一人ぼっちで、「自分の番」がきたときにも一人だったら、誰も私のお墓を作ってくれないのだと気が付いてみれば、なんだか何かをすごく急かされているような、それなのにどこに行けばいいのかわからないような、とにかく落ち着かない気分になるのだった。
そこから先は一人で墓荒らしをして生きた。
ジジーの手伝いをずっとしていたので、森の中で眠り、旅をして、村をみつけて、墓を探し、夜中に掘り起こして、お金に換えられるものの見つけ方や、お金に換えてくれるひとの見つけ方もそれなりに心得ていた。
墓荒らしは、面白かった。
首から上がない死体。立派な剣が胸から背中に刺さったままの死体。抱き合ったような格好で一つの棺桶に二人で入っている死体や、棺桶いっぱいに花が敷き詰められたなかで眠る小さな死体、大きなツボにぎゅうぎゅうに詰められたたくさんの死体。死体はないけれど、棺桶いっぱいに本が収められていたこともあった。棺桶の中を見れば、その人がどんな生き方をしてどんな風に死んだのかがわかる気がした。
死体になってからもう誰からも忘れられている人。死体になってもまだ大切にされている人。
いつだか、お墓の前で膝をついて、うつむいて、ずっと目を閉じている人をみかけたことがある。死んだ人とそうやってお話をしているのだと気付いて、ジャマをしちゃダメだなと思って、その人が帰るまでずっと待っていたこともある。
だから、本当は今日になる前にもずっと、気付いていたのかも知れない。
大切にされているお墓を荒らして、その中を勝手にあけて、誰にも気付かれないように中身を持って行ってしまうのは、その死体を大事にしている人を悲しませることなんじゃないかなと。
だから、墓荒らしをしている最中に、急に怒鳴りつけられて、急に殴られたときには「ああ、やっぱり」と思った。
月の明るい夜だったけど、それが良くなかったのかも知れない。
雨みたいに落ちてくる拳。何度も体の中に入ってくる 硬いつま先。
暗いから、何人の大人に囲まれたのかわからなかった。それでも、なんで殴られているのかはなんとなくわかった。
悪いことをしてきたのだから怒られるのも仕方ないと思った。
謝れるなら謝りたい。
体の中で何かが砕ける音がした。口や鼻や色んなところで血がぬるぬるとした。もう痛いのか熱いのかもわからない感覚にしびれながら。
ああ。
こういう死に方もあるんだと思った。
この人達はきっと、わたしのお墓は作ってくれないだろうな。
なんだかそれが無性に寂しくて、泣きたくなった。許してほしかったけどもう誰に謝ればいいかわからない。暖かいところにいきたくなったけどそれがどこかわからない。誰かにそばにいてほしくなったけど、もう誰もいない。
泣くことだけは出来たから、ただ泣いた。
涙の出てくるところから、お腹の空くところから、冷たくて黒い感情がわき出してきて、目の前が真っ暗になった。
それから短い夢をみた。
死んだわたしをケモノが囓って、食べ残しに虫がわいて、次に草がはえて骨になって。土になって。その土を吸い上げて樹がたっていて、それが森になっている。
そうか。
死んだ後はみんな土になる。土はすべて死体でできていて。
樹はお墓なのか。
視界の及ぶ限りの向こうにまで緑色に茂る無数の墓石がならび、そのもっと遠くにとても大きな樹がみえた。
目を覚ますと、知らない女の子が膝枕をしてくれていた。
急に怒鳴られて殴られたお墓と同じ場所。気を失ってからそんなに時間は経ってないみたい。
そこから少し離れて、どろんとした目をした男の人が突っ立っていて、目が合うとぼそりと言った。
「助けたわけではありません。ただ……彼らは少しやりすぎのように思えたので」
彼ら? と、あたりをみると、大人が四人寝っ転がっていた。そうか。この寝っ転がっている人たちが私に怒っていた人たちで、この女の人と男の人がそれをとめてくれたのか。
やっと理解できたところで、男の人はこちらに背を向けて夜の森の向こうに行ってしまう最中だった。
おでこのあたりを柔らかくて暖かいものがもぞもぞ動いている……と思ったら、女の子が頭を撫でてくれているのだと気がつく。
暖かいし、誰かがそばにいてくれている。さっき思ったことが一度に叶った。
お礼を言いたくなった。同時に謝りたくなった。
どっちを先に言おうかと迷ったタイミングで、女の子に鼻をきゅっとつままれ、顔をぐいっと横に向けられて、口に指を突っ込まれて引っ張られれば、半端に固まった血とよだれがぼろりと出てきた。……そうか。今まで息できてなかったんだ。
次に脇の下に手を添えて立たされた。女の子と向かい合う形。彼女の方が背が小さい。つるつるすべすべと全身を撫で回してきて(くすぐったい)、ひとしきり撫でたあと、うなずいた。怪我が残ってないか確かめてくれてたのだと思う。
そのままくるりとひるがえり、ざくざくざくと森に向かって歩いて行く。
その背中が小さくなっていくのがなんだか悲しかったので、思わずついて行ってしまう。すると、足音が聞こえたのか、くるりとこちらを振り向く。
月明かりで出来た森の影を通して目が合う。
首を傾げる仕草をされる。
何かを訊ねてきているのだろうか。それともこちらから訊ねたのかな。確かに、後ろからついていくのは何かを訊くのと似た行為だったかも。
すると彼女は、前方、高い位置を指さした。
その角度が、樹の上を越えて遠くを指しているように思えたので、なんとなく気がついた。さっきの短い夢で見たあの大きな樹を指しているのだ。
そこに行く、ということだろうか。あの、とても大きくて大きな、何もかもの為に立っているようなお墓に。
私も行きたい。
気がつくと、もう一度彼女と目が合っていた。
彼女はうなずいて。
またくるりと背を向けてさくさくと、指さしたのとぴったり同じ方向へ歩き出す。
私もそれについて行く。
アノロ
という感じで、墓荒らしに拾われて墓荒らしとして過ごしてきた少女。
境遇の割に最低限の社会的良識を持ち合わせているのは持ち前の観察眼のおかげだろうか。
死ねば土になる。樹は土から養分を得て育つ。ならば世界樹は世界そのものの墓碑なのだろうかという思いつきに強烈な興味を引かれ、世界樹の踏破を試みる連中にひっついて行動することとなる。
死霊術は上述の、乱暴な連中にぶん殴られたときから自然と扱えるようになった。
あるは
エトリア、ハイラガード、アーモロードと、これまでにいくつかの世界樹を踏破してきたベテランロリ。
4の世界樹はどうしたんでしょうね。まあたぶん突破してるんじゃないかなおれが知らないだけで。
無口でロリなので周りの連中は彼女が相当なベテランだと知らない。
けれども妙に迷宮慣れしている立ち振る舞いから自然と一目置かれている水先案内人。
レットレゥ
将来を誓い合った恋人に先立たれた青年。
後追い自殺が未遂に終わり、以降、死後の世界について妄執じみた興味を抱く。
それが実在するならばもはや迷うことなく死にたい。
だかそんな世界がないのなら? あるいは、天国や地獄のようにいくつか存在するのなら?
先走って迂闊な自殺をしては二度と彼女に会えなくなってしまう。
善行を積んだ者のみが行ける世界。あるいは、来たるべき善悪の全面戦争に備えた世界。もしくは、死と生とを何往復もする輪廻転生。
煩雑すぎる。どれかひとつなんて信じようがない。それなのに人は一度しか死ねない。
墓守の依頼を受けたのは路銀のためでもあるけれど、それ以上に、墓荒らしという無恥な輩が何を思いながらそんな冒涜を重ねているのか知りたかったからだ。死者の尊厳を冒すなど最も恥ずべき行為だ。私怨なのか義憤なのかわからないものに駆られその依頼を受けたけれど、その情熱はあっさりと後悔に変わる。同行することになった連中が、墓荒らしだとかどうとかはもはや関係なく、誰かを殴ることで金をもらうという仕事を、この世で最も気楽な仕事だと思ってるような連中だったからだ。
月の明るい夜が、余計にその横顔を華奢にみせたのかも知れない。
それだけで虚を突かれたけれど、それ以上に……人の成れの果てを、それはもはや骸骨であり、人を連想させるものでさえなく朽ちたそれを、起こし、抱き、汚れを払い、慈しむような。内緒話を交わすようなその所作が、墓荒らしという言葉面から連想するそれとはあまりにかけ離れていて、戸惑ったのだ。
しかし連中は頓着せず、棍棒で彼女の側頭部をぶん殴った。
その所作に気にかかるところがあるとはいえ、目の前で行われていたことは確かに墓を暴く行為だった。だから連中の乱暴をとめるべきか逡巡する。……だが客観的にみるべきだ。浮浪児そのものの痩せた娘を大の大人が取り囲み暴力のほしいままにするという構図は、やはり人倫から外れている。
「そこまでにしろ! 暴力が過ぎるぞ!」
制止の声をかけながら警告を込め軽く電撃を放った。
それと同時に、人影が走り、長柄で一人の男を打ち据えて昏倒させた。
― ―彼女に仲間がいたのか?
身構えるも、それ以上に、連中の残された一人の……困惑し、てめえなんだ裏切ったのかだのなんだこのやろうだのと意味の通らないことをわめくその背後に立ち上ったものに気をとられた。
目に見えるほど大きな雨粒をした黒い霧のような、羽根も身も黒い羽虫が無数にたかり出来た雲霞のような何かが、気がつくと数頭、男の背後にぬうと立ち ― ―それと意識するまもなく、男の頭にかじりついた。
男は悲鳴も上げず崩れ落ちた。
咄嗟に連想するものがあった。死霊術だ。土水火風の力でなく、人の怨恨を糧に行使される呪術。
夜の中の森の影の中にあってなお暗く、黒く人の形に区切る何者かが数頭、底冷えする敵意をもって立ちはだかってくる。
しかし気圧される間もなかった。
彼女の仲間と思われる人影 ― ―少女が、踏み込みも鋭く、 携えた長柄二度三度四度と閃かせれば、それらは霧散した。
あとに残るのは、好き放題に打ち据えられ、無残な姿で横たわる墓荒らしの少女だった。
酷い痣と、滲む血と。それらよりもずっと、昏睡のままに今もこぼれている涙が痛ましく印象に残った。
迷信は信用しないタチだった。
死霊術も迷信の類いだと考えていた。確かに、呪術によって何らかの現象は起こせるだろうけれど、その源が怨恨や死者の情念というのは、単にはっきりと判明していない法則を印象のままに語っただけだろうと解釈していた。
だけど……もしそれが本当に死霊を扱う術ならば、それは違った形で死後の世界を解明する手がかりとなるのではなかろうか。
そして、あの夜にみた死霊(仮)は……あの、気絶している墓荒らしを守るように立ちはだかってきたようにもみえた。
死者と心を通わせることなど出来るのだろうか。
世界樹を制覇したものは、万象に読む知識を得られるという。
そんなものは迷信の類いだと考えていた。そもそも、何もかもの答えとはなんだ。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えがわかると言われても、曖昧に過ぎる。
具体性が何もない。
しかし、或いは、もしも仮に、そのような答えがあるのだとすれば、死後の世界の解明にも近付くのではなかろうか。
何にせよ、あの夜のことがもどかしく引っかかり続けていた。
そんな折りに、アイリオスの街であの墓荒らしの少女と再会した。
トリニダート
割と良い身分の貴族の娘。
高貴な生まれにともなう責任感をよく自覚し、文武ともによく修め、国への忠義も厚く、弱者への施しも忘れない。
第三者からみても理想形にほど近い立ち振る舞いの騎士。ただし、自己規範の強さゆえそれを他者にも押しつけがちな面は差し引いて評価する必要はある。
第三者がみるからこそ理想的な彼女の騎士像は、しかし内部を子細に観察すれば歪な形をしている。
その志を形作ったのは、様々な物語に語られる伝説の騎士像である。
詩人が記し、書物の語る様々な気高く、凜々しく、かっこいい騎士は、それぞれに、友を庇い気高く死に、王の命に応え凜々しく死に、恐ろしい獣に挑みかっこよく死んでいる。
大団円に終わった騎士道物語ももちろんあるだろう。例えば、意中の姫君と結ばれ平和にくらしました。めでたしめでたし。
しかしそれは、その騎士様がやがて迎えるかっこいい死に様がまだ描かれていないだけなのだ。
理想に燃える騎士である彼女は、彼女自身の終着点を既に見据えている。
どんな姿かはまだわからないけれど、いつか私もかっこよく死ぬのだ!
アイリオスは今、街をあげて迷宮の攻略に勤しんでいる。
国に仕える貴族としては無論、その一添えを果たすべきだ。
世界樹の踏破という峻厳な目的の達成を志す者たちとならば、高潔な友情を結べもしよう。
問題は、それほどの崇高さを持つ者達が決して多くはないことだ。
そんな悩みを持ち街で用向きを片付けていたところ、あるはとアノロとレットレゥに出会う。
正確には、いつかの夜の森でアノロを打ち据えたあの荒くれ連中と偶然出会い、意趣返しを受けるも、あっさりと退けたあるはの姿を見初めたのだ。
テンゼン
武家の家の末弟。
戦場での死こそ武人の誉れと教えられて育つも、武官だの師範代だのと戦場から外れた場所に職を得た兄貴連中に疑問を感じ出奔。
ならば戦場に身を投じるかと言えばそうでもなく、真の武芸とは一対一の状況下にこそ最も強く問われるとかどうとか言い、それは避けている。
体よく言えば武者修行中の身ではあるけれど「命を賭すほどの相手・場面ではない」という理屈をしょっちゅう用いるあたりに本性が透けてみえる。
刀の愛好家でもある。
工芸品の美しさこそあれど、刀の真の美しさは、骨を割り肉を断ち、何者かを殺すという単一の目的に特化したあまりに潔い存在そのものにあると解釈し、であればこそ、刀が最も美しく映えるのは何者かの命を斬り捨てた瞬間であると力説する。
命を晒し武芸に励んでこその武家だからなのか。
刀の美しさに浸るため、体良く斬り捨てられる存在がそこに溢れているからなのか。
どちらにせよ世界樹は彼にとって都合の良い舞台だった。
トリニダートとはお互いに家名を知っているという程度の知り合いだったけれども、知人であるには違いない。
その縁故から同じギルドの庇に入るが
「死ぬことを最終目標にして武芸の極みに達せるものか」
「目的をともなわない武術などただの暴力と大差ない」だのと反目しあっている。
マルナコ
敬虔な心根を持つ真面目な努力家の巫女。
元より神秘であり、才能によるところの大きい巫術を、観察と勉強により身につけてきたある種の天才。いずれはそうして蓄えた知識を体系立て、より多くの者が巫術を学べるよう整え、世界へ貢献するというのが彼女の大望である。
けれどもその努力は一般的な感性を持つ者にはあまり認められず、人当たりの良い性格と優れた巫術の持ち主にも関わらず孤立しがちだった。
彼女の観察と勉強は、おおむね死骸に向けられるのだ。
迷宮を転がる死体にいちいち(嬉しげに)足を止め、獣を殺せば斬殺か刺殺か撲殺かを事細かく(嬉々として)訊ね、珍しい原因で怪我をすれば治療を後回しにして(楽しげに)観察し、倒しなれた魔物ともなればどの程度まで危害を与えれば死ぬかを(執拗に)試し……結果として、せっかく多くの教材にあふれた迷宮にいながらも同行してくれる仲間に恵まれずにいた。
迷宮の片隅で二人組の遺体を見付けた。おそらくはこの周囲には珍しい獰悪な魔物と遭遇し、倒されたのだろう。
それをいじくりまわして、もとい子細に観察している最中に面々とであった。
死体から死因を、つまりはストーリーを読み解く技術が、アノロの感心をひいて。
(こちらの方の足首に酷い打撲がみられます。おそらくは、この傷で逃走ができなくなり……他の方は逃走できたのかもしれませんが、こっちの彼は、体の正面にばっかり傷があります。盾と鎧と体に、同じ形の爪の痕がたくさんあるからきっと粘り強く戦ってて……おそらくは唯一見捨てられず魔物に立ちはだかったのが彼なのかな。足を痛めてる彼の手と腰付近が土に汚れてるのは這って逃げたから。それを差し引いても、逃げたにしては半端な距離。方角も袋小路に向かってるのを思うと、魔物に立ちはだかられたから。その二つをあわせると……きっと彼は、自分を守ろうとしてくれた人が、それでも抵抗及ばず殺されるところをみてる……痛ましいことです)
死因の解説に、効率的な殺傷方法を見出したテンゼンが興味を持ち。
志の高さにトリニダートが援助を申し出て。
要するにちょうど良い居場所をギルドに見出してそこに収まることとなる。
トトツカ
宗教家。
天国の扉は勇敢に戦った者にのみ開かれる。
素晴らしい教義だと感じた。
世に人の信じる正義は無数にある。だからこそ人同士が争わねばならない。
しかしそうして対立しあう者同士も、この教義の下に正しくあれば、お互いの正義を否定することなく(お互い殺し合うことで)ともに天国へ昇れるのだ。
強い者も弱い者も、富める者も病める者も、善人も悪人も、死を恐れず戦いに向かい(そして死に)さえすれば等しく神のもとへ導かれるのだ。
なんて平等な教えだろう。
と、開眼し研鑽を積むも世は比較的平穏であって戦場らしい戦場があんまりなかった。
人は何かを志すもの。なればこの世のどこかで必ず戦場は生まれているし、そしてこれからも生まれるのだろう。
やむなく今は、鍛錬のため、また鍛えた肉体でもって国に奉仕するため世界樹に巣くう魔物たちを天国に送る日々を過ごしている。
神の前に魂は皆平等。人であれ獣であれ、天国の門をくぐる資格はあるのだ。
アノロの使う死霊術は、彼女にとっては「悔いを残し死んだ者に再び戦って死ぬ機会を与えている」という尊い行為として映った。
レットレゥの、死後の世界の興味は迷いの一種であって宗教家として導いてやらねばと感じた。
諸々の都合で、ギルドに加わることとなった。
ラウタゲニ
あるはがギルドを申請する際に度々用いているギルド名。
今作では、なんだかんだで妙に「死にたがり」の連中ばかりが集まることとなった。
あるはは基本的に来る者一切拒まずという姿勢なので頓着はしていない。
それでこれまでどうとでもなってきたし、今回もまたどうとでもなるのだろう。