この世界の片隅にを観たよという報告。

 まとまった感想とか言えねえよこんなもんというくらい感情移入してしまった作品なので。感想とか評論というよりかはただの観たよー報告です。
 断片的に思いつくまま書いていきます。


そのいち。選んだもの、選ばなかったもの、選べなかったもの。

 映画版のこの世界の片隅にですげー好感触を持ってしまったところがひとつあって。
 それは、すずさんの旦那さんである周作さんの女々しくも男子らしい部分であった。


 男らしいのに女々しい。表現が変な気はするけど女子に対して女々しいとは言わないので男子に女々しいというのは相応に正しいはず。
 バールのようなもの。という話はともかくとして。
 女々しいという言葉も男性本位な視点っぽく思える言葉だからあんまり好きじゃないんだけど、他に適した言葉が見付からないので続けて使う。


 周作さんは旦那として申し分なく優しい男性ではあるけれど、一方で煮えきれない女々しさもある。
 折に触れて「すずさんに選択権を与えず嫁としてもらってきた」ということに負い目を感じてるだろう部分があって、
 それと同時に「それでも自分に惚れてほしい・好いてほしい」という願望を隠せずにいる点である。


 黙ってオレについてこい。みたいな封建的男性像よりかはずっと好印象なのは確かなんだけど。
 その挙げ句に、水兵さんに女房を明け渡したりしてしまい、その後ずいぶん経ってすずさん当人から「夫婦いうのはそういうもんですか?」と怒りをぶつけられ「すずさんがわしにあんな顔をみせたことがあったか!? わしに怒ったことがあったか!?」と、幼なじみな二人の親密さに拗ねた末の行為だったと明かしてしまう女々しさ。
 自分が選んで連れてきた。相手に選択権を与えなかったという負い目。どっちが表かはわからないけど、その裏返しの、相手に自分を選んで欲しいという願望。
 そこからくる嫉妬や、義理に隠した自棄。それは作品を通じ長く尾を引いて色んなところで表層する。
 例えば、「わしは、すずさんを選んだこの現実が最良の選択じゃ思う」だったり、
「わしはあんたと夫婦になれて楽しかったで、あんたのいる家に帰れて嬉しかったで。あんたは違うんか! ここはよう知らん男の家のまんまか!?」だったり。


 一途なのだ。
 とにかく、すずさんに自分を選んだと言って欲しくて、その自信が欲しくて。
 ああ。ええ旦那さんや。すげえいいひとですよ周作さん。いやみんな知ってるだろうけど。すずさんといううわーちくしょーすげえーかーわーいーいー女性と所帯を持つに相応しい男性ですよ。




 主人公とは、お話の選択権を知ってか知らずか与えられた存在ともいえる。
 けれども、すずさんは何かを選んだだろうか。
 ぽやーとしているすずさんは、流されるままに流されるけれども、したたかさも併せ持っていて、持ち前の柔軟さで、懸命に順応していく。
 すずさんは何かを選んだだろうか?
「イヤだったら断ってしまえばいい」と言われたお見合いも、どっちかわからないとぼんやりしているうちに輿入れが決まる。
 広島の風景を絵に留めて「さようなら」と呟いても切符を買い損ねてもう一日広島に逗留する。
 幼なじみと再会しても「今はこんなにもあの人が憎い」と拒絶する。
 広島に帰ると周作さんに言っても、やっぱりここに置いてくださいと径子さんにすがる。
 あの人はここから離れられただろうか。家を壊してもらって、胸を張って別の土地にいけただろうか? と自問する。
 おさげを切り落として「連れて行ってください!」と懇願しても「いけん!!」と強くたしなめられる。


 選ばずにぼんやりしてたらいつのまにか決まっていたり。あるいは決めたつもりでも翻意にされたり。
 決定権を色んな形で逃し気味のすずさんだけど、自らの選択をどうしようもなく悔やむシーンがある。
 それは選択と言えたものだかどうだかわからないかすかなものだけど、それでも、自らの選択だと悔やむシーンがある。


 晴美さんとつないだ手が、右手でなかったら。


 書いててもうぼとぼと涙が出てくるけど。
 だってどうしようもなかったじゃん。
 どうしようもなかったじゃんかよお。もお、だって。選べるはずがないじゃないかそんなもの。


 それでもすずさんは自分の選択を悔やむ。
 繋いだのが右手でなかったら。もっと早く気付いていたら。 あの茂みに飛び込めていたなら。
 あのときの自分の居場所はどこだったろう。
 観ている側としてはそれはもう切実に、どうしようもなかったじゃないかと伝えたい。
 選択権なんてそこになかったじゃないか。 選びようがなかったじゃないか。


 本当にそうだろうか?


 この作品は日常を描いた作品である。
 どうしようもない世界規模の悲劇が起きたってそこには日常があるという話であり、日常の中にだってどうしようもない悲劇は怒るというお話でもあって、それでも日常は維持され続けるというお話でもあって。とにかく懇切丁寧に大事に、執念じみた情熱でもって日常というものが描かれた作品だ。
 だから、日常というものの残酷さだって描いている。


 玉音放送とともに戦争の終わった日、すずさんは何に気が付いたんだろう。
 何に気が付かずに、いっそ何も知らないまま死にたかったと怒り狂い涙を流した「何か」とは何だったのだろう。
「暴力でうちたちを従えていたということか!」という身を切るようなあの怒りは、何が故だったのだろう。


 径子さんは、なぜあのとき、晴美さんの名前を呼んで、一人泣いていたのだろう。
 それはたぶん、諦めていたのだ。
 そんなにも大事なものを失ってしまったのに、失ってしまったのも仕方がないと、諦めていたからだ。


 径子さんという小姑さんはとても強い女性である。
 何が強いかというと、何もかもを自分で選んで決めてきた女性だからだ。
 旦那を病気で亡くし、二人の店は戦時だからと取り壊され、息子は旦那方の親戚に取られ、娘は戦災に奪われた。
 思えばすさまじい来歴なのに。それを背負いながらも「自分で選んだ道だから悔いはない」とすずさんを励ましさえする。すずさんとはまったく対照的なひとだ。
 だから、同じ諦めるにしたって、理由もなく諦めたりなんかは絶対にしない。


 それなのに、戦争に負けたその日、娘の名前を叫びながら隠れて泣いていた。
 径子さんは何に気が付いたのか。何を理由に諦めていたのか。
 仕方がないと、諦めていたのだ。
 どう仕方がないと諦めていたのかはわからないけれど、おそらくは「戦時中だから」「こんな時代だから」
 だから「晴美さんがいなくなってしまったのも仕方がない」と。
 もっと有り体に、とても酷い言い方をすれば。「戦争に勝つためならば晴美さんを引き換えにしても仕方がない」と。


 径子さんがそんな選択をしたのだろうか?
 するはずねえじゃねえかばかやろう。
 事前にそんな要求をされたなら突っぱねたに違いない。知らぬ間に、気付かぬまに引き換えに連れさらわれたも同然だ。
 だけれど。
 あの慟哭は、径子さん自身がそれに気が付いてしまった叫びなのだと思う。
 日常と引き換えに晴美をあきらめてしまったと。諦めたということは、もう、そんな選択をしたも同然だったのだと。


 ずすさんが気づき、泣きながら怒り狂った何かの正体とはそれだ。
『日常』というものがどういう手段で守られていたか。
 日常を守るために何が引き換えに差し出されていたか。
 些細で、微笑ましく、ありふれていて、あんなにも、あるいはこんなにも愛おしい日常というものの正体が。正体という言い方が大げさならば、日常というものの持つひとつの側面がそれだったのだ。



 それを選んだのだろうか?
 選ばなかったからそうなったのだろうか?
 それとも選べなかったのだろうか?
 本当に?


 答えなんかでるはずねえじゃねえかよ。というのが正直なところではある。
 それとも、選んで選んで、自分で選んだ道だから仕方がないと言い、それでも泣いている径子さん相手に「選択の結果がそれだよね」だとか抜かせる人間がいるのだろうか。いるのならとりあえずぶん殴りたいけど。
 それでなくとも。この作品にはどこか、選択という行為そのものに疑問を投げかけている節がある。
 ぼんやりしているうちに、嫁に連れてこられたすずさん。
 選んできたと自負しながらも心が折れてしまう径子さん。
「過ぎたことも選ばなかったことも覚めた夢と同然じゃ」と語る周作さん。
 或いは、選択権という意味にほど近い、利き腕を失ってしまうすずさん。


 或いは。選んだこと、選ばなかったこと。
 選択という行為への疑問に、一つの回答のように、私にとっては救いのようにも思えるのがこのお話の最後にエピソードとして挿入される。
 広島にいた、母親を失ったみなしご。
 その母親は、左手で子と手を繋いでいた。右手ではなく。
 それを救いだと解釈してしまうのは私が捻くれているからだろうか。
 あのとき、晴美さんと繋いでいたのが左手だったとして。その結果に、もしかすると晴美さんと引き換えにすずさんが死んでしまったとしたならば、それは心に酷い傷を負った晴美さんがそこに残されたというだけなのではなかろうか。
 もちろんそれでも死んでしまうよりはマシだと言える。けれど。
 みなしごとともに描かれた、動かない母親にすがり、その母親に虫がたかるあの惨たらしい出来事にも似た悲劇が代わりに一つ増えるだけなのではあるまいか。
 そう思えば、もう、何が間違ってただとか、何をすべきだったとか、正しいとか正しくないとかそういう話ではなくなるような気がするのだ。
 それが自分が選んだ結果だろうとも、あるいは選び損ねたしっぺ返しだったりするかも知れないけれど……日常の正体とは、そういう話のようにも思えてくる。


 ならば、この映画がみせた日常の尊さとはなんなのだろう。
 たぶん、それの答えもこの映画は「すずさんのもつ強さ」という形で示してくれているように思う。たぶんだけど。


 それがすずさんの決めた作中唯一のことだったらばこの与太話もきれいに絞まるのだけど、残念ながらそうとは断言できない。それでも。
 母を失った子を抱いて、九つの嶺に守られているから九嶺というのだと由来を聞かせながら、呉へと帰っていくすずさん。
 その直前に周作さんに訊ねられる。「家を出て広島に所帯を持つか?」と。それに対して「いいえ。呉はうちが選んだ居場所ですけえ」と答える。
 それのもう少しだけ前に言っているのだ。

「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」


 それは選択を受け容れる言葉であって。
 選んだものを、選ばなかったものを、選べなかったものを。もしかするとそれの無数の積み重ねかもしれない日常というものを肯定する言葉だ。
 そのときに初めて、すずさんというひとの強さを理解できた気がする。




 でもその強さは作中に常にすずさんの微笑ましさとして現れてるんだよねー小姑さんにいけず言われてもへこたれない素直さとかそういう形でさーとかこれ以上は蛇足に蛇足にょきにょきでしかない感じなんでこの項は終了。



そのに。この作品にあった透明な執念。


 最初に、文中のどこにも挟めそうにない個人的な体験を書いておくと。
 広島に原爆が投下されるシーン。この作品のとても象徴的なシーンだと思う。この世界にやたらと大きな出来事が起きた一瞬で、それもとても近いところで起きた出来事なのに、画面の中の人々は「……あれ? なんだろうね。今の」「光ったよね。なんか、気のせいじゃないよね?」くらいに、不思議げに不安げに顔を見合わせるばかりで、結局は、戦時下という独特な環境ながらもいつもどおりの日常に戻っていくというシーンだった。
 その一瞬の映像にはあの惨たらしい出来事を直接描くシーンはどこにもなかった。
 あくまでも「あれ? 通り雨でもくるんかな?」というのどかささえ感じさせる絵面だった。


 それなのに劇場中の観客のすすり泣きがすごかった。


 見え透いた予兆ではあるし、日本に生まれたからには折りに触れて散々覚え込まされる悲劇の起きた一瞬ではあるけれども。ちょっと怖いくらいだったよ。うめき声めいた嗚咽も聞こえたし、前の座席か後頭部の方からかも分からないくらい色んな方向で少なからぬ人がすすり泣いていた。
 おれも泣いてたんだけど。
 ちょっと希有な体験だったね。

 希有な体験ではあれども、日常の機微を、まるごと余さず描きつけたようなこの作品だからこその出来事だったようにも思う。




 感想を言いづらい映画ってあるよな。
 本当に大事なことは言葉に出来ないだとか、真の感動の前には言葉は無用だとか、そんな話ではなく。単にそういう性質を持つ作品てことである。
 じゃあどんな性質かというとこれもなかなか……なんと言ったものか困るんだけど。そういった類いの作品をいくつか思い浮かべてみれば……宮崎駿千と千尋だとか、ギレルモデルトロのパンズラビリンスとか……。
 そうやって思いついた、なんか感想を言いづらい作品とこの世界の片隅にとにむりやり共通項を探してみれば、えーと、なんかこう……世界を、ほい。と丸ごと渡されるような、渡されるだけのような作品群がそれである。


 こんなことがあったんだよ。と。
 世界をそのまま渡されたような映画。とかいう大袈裟な表現を使わず単なる実感で言うならそんな感じだろうか。


 こうの史代という作家のイメージはやはり「夕凪の街 桜の国」で形作られていて。
 大それたことに挑戦したもんだというのが印象として強い。
 戦争を経験してない人間が、戦争を極めて主観的に描いたお話だ。そう。主観的に、である。
 創作とはつくりごとだ。架空の物語というのはどこまでいっても嘘なのだという宿命がある。そして現実はかたくなだ。
 ヒロシマを舞台として創作をすると言うことは、ヒロシマを主題とした嘘をつくということだ。
 そしてその嘘は悲劇を誇張するでもない、「どんな悲劇が起きたって変わらないものがある」と叫ぶものであった。捻くれた受け取り方をすれば、悲劇なんて大したことじゃないとさえなる。
 そういう途方もない嘘をつくため、この作家はものすごく誠実になったに違いないと感じた。


 神性を保つには不可侵なものにしといた方がいい。目を伏せて、禁句にしといた方がいい。
 そんななかで、どこにだって日常はある。どんな状況でもひとは笑えると教えて貰えることの、なんと心強く、我々の後ろめたさを慰撫してくれることか。
 だがそんな慰めを、戦争を体験してない人間が口にしていいものか。
 そんな自問自答をこの作家先生はどれだけ繰り返したのだろう。自身の問いかけにどれだけ打ちのめされただろう。それへの答えはただ誠実に聞き学び調べること意外になかったのではなかろうか。
 そうまでして描きたいものがあって、そうして描き上げたものがこの作品だったのだ。
 どうあれ、とにかく私はこの 「夕凪の街 桜の国」 という作品を肯定したいと強烈に感じた。
 でなければ先に進めないような気がしたし、こうの史代という作家個人一人のその挑戦を賞賛したいし、何よりも作品そのものに心動かされたからだ。


 そのときの「おれはこの作品を肯定せねば」という独り合点な感情はだいぶ強烈に焼き付いてあって。
 オープニングに、コトリンゴの歌う「悲しくて悲しくて」が流れたときに。「この限りないむなしさの救いはないだろか」という歌詞を聴いたときに。
 ああ、これはそういう作品なのだと、観る側としての覚悟みたいなものはあった。


 執念のありどころ。というようなものを思う。
 映画に限らず諸作品は予備知識とかナシにみた方がなにかと都合がいい。
 けれども、視聴前に漏れ聞こえてきた評価に「4年がかりで描き上げたらしい」「クラウドファンディングで資金を募って」「監督は一日の食費100円の生活を続けてたとか」等々、執念を感じさせるエピソードが多く。無意識的にそこんとこへの期待があったかも知れない。
 感想を言いづらい映画があれば逆に言いやすい映画というのもあって、それらは監督の情熱が目に見える作品群のことだ。
 おれはこの映画でこういうものを表現したいんじゃうおおおおおおーという熱量が伝わってくるよな映画がそれで、抑えようとも溢れ出る熱意でフィルムを蒸着させたような作品に対してはぽんぽん感想が出てくる。それだけ作品としての意図を察しやすいからでもあるし。基本的に私はそういう作品を選り好みする。
 そんなだから、開始してからいつまでだかは少し拍子抜けのような印象があったと思う。
 それは見終わってからも続いた気がする。


 結論から先にいうと、監督の執念はこの作品を現実として現すことに費やされていたのではないか。というところに落ち着いた。
 日常というものがなぜ曖昧かというと、意識にとまらない些細な出来事の集積だからだ。
 自然とはもちろん不自然でなく、自然体であるということだ。人の創意が感じられては自然ではない。
 監督の情念はどこにあるんだろうと最初に感じたけれど、それはおそらく、この作品が自然であるために抑えられたのだ。
 この作品は日常を描くことに徹底している。これほどまでに日常を描くためには、既に過ぎ去った時代の空気を再現するためには、意識にとまらず忘れ去られる途方もない量の何事かに意識をとめて、いちいち気を配り、あの頃のあの呉を描くために必要なものを、厳選に厳選を重ねて、確かな筆致で描かなければならないはずだ。
 そこには膨大な思考が費やされたはずだ。
 それなのに、作品そのものにはそんな痕跡はなく、かろうじて感じられるのは徹底した無私だ。


 この監督が費やした情念は、そのほとんどを、この世界の片隅にという作品をこの世に、自然に、描くために、透明に燃やされた。
 それほどまでにこの世界の片隅にを「現実に」描きたかったのだろうか。
 なぜだろう。
 その理由もなんとなくわかる気がする。
 この世界の片隅に起きたその物語を、現実に起きたことだと観客に信じさせたく、そして監督本人もそう信じたかったからではなかろうか。


 予兆で劇場中がすすり泣いていた。というのは実際んとここの作品だからこそ行き会った出来事な気がする。
 大事なのは、目の前に起きた出来事ではなく、『予感』が心に突き刺さったという点だ。
 日常という形で、等身大という形で、強烈に感情移入を強いてくるこの作品に散々感情移入した今では、それも当然なことのように思う。


 これだけ愛おしい日常が、徹底して破壊されてしまう予兆に泣いたのか。
 すずさんという女性と、その近しい人々に起こるであろう災厄に泣いたのか。
 どれだけ日常を守ろうと立ち働いても、それを覆い尽くす出来事には無力なのだと思い知らされて泣いたのか。
 歴史上の事実であり、もはや不可避の行く末に他になすすべなく泣いたのか。


 ただ単に、日本に生まれたからには散々教え込まされる悲劇だから、もはやフラットな感情で観ることが出来なかったというのもあるとは思うけど。
 それでも、とにかく我々は、この強烈に、静かに暖かく、しかし速やかに感情移入を誘うこの物語の、目の前の日常がもはや他人事には思えず、そしてそれが壊されることを危惧して泣いたのだ。


 この作品から反戦的なメッセージを受け取りすぎると、見零すところが多いと思う。
 執念を感じさせる筆致で描かれた日常に、選りすぐられた日々の機微は、すべて架空の出来事で、それに現実感を与えるべく情熱と技巧の集結がこの作品だからである。極論すればヒロシマや戦時中の呉を舞台とした出来事でなくったって構わないはずだ。
 歴史的な知識や前提がなくたって、すずさんのあの日常や細やかな可愛らしさは万人共通で心を打つはずだと思う。
 だけれどもこの物語は、現実の出来事を敷き、この世界の片隅に絵空事の日常を描き足すことでこそ生まれ得る作品であることは違いない。
 この世界の片隅にこんな日常があったと信じたい、という信念や情念や……とにかく、そんなものが根底であり芯となっている作品だからである。


 どんな環境にあっても、日常はこんなにも強固だと信じたいのか。
 日常はこんなにも楽しいものだと信じたいのか。


 この世界の片隅にこんなことがあったかも知れないという物語であり、この世界の片隅にこんなことがあってもいいじゃないって物語でもあり、この世界の片隅にこんなことっだってあったに違いないって話なのだと思う。


 こうの史代先生がこのお話を描いたのは、こんな日常があったに違いないと信じていたからだろうし。
 それこそが、片渕須直監督の執念や情熱の拠り所だったのではなかろうか。
 とにかく、強烈に、こんな物語が、こんな日常が、この世に確かにあったのだと誰かに伝えたかったのではなかろうか。
 あるいは、これこそが創作の力なんだと、細やかな機微に共感し、起きてしまった悲劇と、その悲劇の予兆に涙腺を刺激される想像力と、それを惹起させる力こそがアニメーションもしくはつくりごとの力なのだと。
 そう信じたからこそ、それを証明したかったからこそなのではないだろうか。


 それを観た我々もまた感化されて思うのだ。この世界の片隅に起きたことは、この世界の片隅にもあるのだと。
 きっと、この世界の片隅に、すずさんは生きていたのだと。この世界の片隅に、すずさんは生きているのだと。
 そう信じたいからこそあんなに泣けたのではなかろうか(オレが)。こんなにも泣けるのではなかろうか(オレが)。
 この出来事はそれの端緒な気がするんだよね。



 そう思えばこそ、すずさんの呟いたあの一言がまた、強くて美しい言葉に思える。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」