シンゴジラの感想話。

 戦後という言葉を実感できた例しがない。
 いわゆる文豪と呼ばれていた人々の創作物にはそうした区分で呼ばれるものも結構多い。とはいえ、紙の上でそれの生み出された文化背景を察してみようと試みるも戦前戦後も近代も等しく「今より昔」という感触ばかりが残る。
 夏目漱石三島由紀夫も同じような箱に入っている。
 それでは。とはいえ。
 震災以後という言葉もまた実感には遠い。
 2016年の8月からみた2011年の3月は、それこそ戦後と呼ばれた価値観よりかはずっと近いはずなのだけど、元より社会に定着できていない私のごとく生ニートにとっては、震災の起きる前と後でどのくらい変わったのかを説明し体感会得できるほどの経験がそんなにない。

 それに、実際に被害に遭われた人々。
 あるいは帰宅難民となって夜中を歩いた人々。
 そうした人々を目にすれば、西日本の片隅で「コンビニに商品が補充されねーなー」程度の体験しか持たない私にはあの震災に対しなにがしか口を挟むことに強烈な負い目がある。たいへんおこがましくすぎる。

 そんなだから私がシンゴジラに関し何かを語るのはそもそもが悪スジなのである。
 ゴジラの過去作をまともにみた覚えはなく、特撮に関してもこれといった思い入れがない。

 しかし。「体感」はどこまでも正直だった。
 今でこそ「もはや他人事」というツラをしているあの震災だけれど、起きてから数日、数週間、もしかすると数ヶ月。
 眠るとき以外のあらゆる時間をモニタの前に張り付いて過ごし、貼り付けなければケータイをいじり続け、特例処置によりネットで放映される様々な報道局の報道映像を開けるだけ複窓に開き、その片隅でついったのTLを放流し、被害者数、福島原発、生み出されるデマ、救助の様子、美談、醜聞をめだまから注入し続けていた。
 完璧な情報中毒だった。震災に関する報道に触れていなければ不安定で、文字通りの震えていた。自分の日常を忘却していた。
 いつ頃かは思い出せないけれど、ああおれは明らかにおかしくなっていると気がつき、他人事は他人事であると線を引いて、意図的に情報をもぎ離すことで、世間の大多数と同じ頃合いに私も日常に戻れた。

 あのときは真剣に思いかねていたのだ。
 この日本はどうなるのだろうと。あるいは、日本が終わるのかも知れないと。

 あからさまにあのときを引き写し、引用する演出によって、なんとかして忘れようとしていたあの体験が引きずり出された。
 とてもよくない目眩を感じた。
 震災という日本人全体に降りかかった経験をあからさまに用いるそれは、言ってしまえば露悪的ではある。けれど、しかし、現実として、傾国の危機を現存する多くの日本人が体験して以後に、それを用いなければ何もかもがぼろぼろの嘘になってしまう。
 描かれる放射線量のグラフ。つなぎを着た首相による記者会見。L字で区切られ続ける報道。放射能汚染の危機。使い物にならないと叫ばれる災害対策マニュアル。
 自粛とよばれる臭いもの蓋が大好きな世間のなかで、よくもこんな演出を選択できたものだとも思ったけれど、改めて思えば、他に方法はなかったのかも知れない。
 現実に、日本が滅ぶかも知れないという危機感の味を知った我々にとって、虚構のゴジラがどれほどの恐怖になるというのか。
 ああ。そうか。これが「震災以後か」と思い知らされた。

 だからこそシンゴジラは、創作に許されるかどうかわからない線で、執念のような説得力で、地道に順当に、丁寧に周到に、いっそ理性的に、一つ一つ説明しながらも異様な速やかさで都心を滅ぼしにかかる。
 真綿で首を絞めるなんて表現がある。そんなもんじゃない。つま先の骨を潰したところから初め、くるぶしを壊し、脛を折り、膝を割り、太ももをかじり、腰を砕くような、破壊力を伴う周到さと丁寧さ。

 有り体に言えば、怖かった。

 そういえば、ギレルモ・デル・トロ監督がパシフィックリムのオーディオコメンタリーで言っていた。
「何歳であろうと童心に帰って怪獣やロボットの存在を信じてみてほしい。そうすれば制作中の僕のように、11歳の少年の心で本作を楽しめるだろう」
 こーれーがーそーれーかー。という気分だ。

 その威力をともなう説得力が、その末に熱核兵器の使用にたどり着く。
 それまで「はいはい大国意識大国意識どうせ日本は属国ですよ」とうんざり顔の無抵抗でアメリカの要求を処理し続けていたお役人さんが「この国にまた核を落とすというのか!!」と激昂し、お役所特有の煩雑さも根回しも涼しい顔でこなす辣腕政治家が作中ほぼ唯一「それが……国連の要請ですか……」と声と視線を振るわせて狼狽する。
 そして「世界規模の災害をとめるため身を挺して熱核兵器の使用を許可した。そう演出し、各国の同情と国際援助を求めるしかない。それが日本という国が生き延びる唯一の方法だ」と、視聴者にさえ、原爆の使用をあきらめさせる。

 これほどまでに、作戦の成功を祈らされた創作作品があったろうか。

 日本らしい映画だよなあとあっさり言える。
 世界に誇る技術立国日本ーだとか礼儀正しくオクユカシイ日本の美徳ーだとかそうしたナショナリズムにはちょっと身構えてしまうところではあるけれど、そもそもこの映画が日本だとか、或いは国体を為す存在そのものを題材とした作品なのだから、日本だからこそという感想は仕方のないところだ。
 1分遅れただけで非難囂々の正確さで日々勤め人をぎゅうぎゅうに圧縮し会社へ送り届ける鉄道での爆撃も、重機による薬品の直接注入といういっそ地味な最終手段も、ひたすら頭をさげて非論理的な情に訴えるしかなく責任をとる以外の役目を負えない重役も、だいたいが「まあ日本だしね」と諦観を持って受け入れている現実だ。
 それらがことごとく切り札になるというあたりは率直なエンタテイメントであるし、この映画がメイドインジャパンであることをごっそりと印象づけられる。

 ポスターにのっけられたキャッチコピーがどれくらい監督の意向を汲んだものなのかはわからない。
 けれど、現実vs虚構と書いて日本vsゴジラと読ませるそれは様々に含意があるように感じる。
 作品そのものがゴジラに対する日本の総力戦を描いたものであるし。
 震災という大損害をおった現実と、それを経てもなお虚構の亡国の危機で人々を楽しませられるのかという挑戦でもあるし。
 全て見終わった今だと、虚構の日本はこの危機を乗り切って見せた。同じことが現実の日本でも出来るだろうか? という挑発のようにも感じる。
 というか。挑発というのは相応しくない気がする。同じことが出来るに違いない、という監督のラブコールのように感じるのは入れ込みすぎだろうか。

 だとしても、「この国はスクラップ&ビルドで成り立ってきた。今回だって、変わりはないさ」というあの一言が。
 震災からまもなく作成されたシン・ゴジラであり、そして、戦後まもなく作成された最初のゴジラへのメタなオマージュなのだとすれば。
 やはり、この国に向けられたラブレターであるように感じられてしまうのだ。

 そんなだからぼんやりと日本人以外がみたらどういう感想になるんだろうなあーというのは知りたいところである。
 具体的に言えば、ギレルモ監督にみてもらいてえ。それともとっくにもう見終えてるかな。
 エンドロールの最中に、撮影に関わった人間への謝辞とその名前の数々を述べられるだけ述べて、少し尺が余ったのか、だからこそ予定になかったかのように「僕は怪獣のために生きている。ともに彼らを生かそう」と一言漏らした、あの監督がこの作品をどう受け止めたのか。
 知りてえなあ。
 生きてたよ。監督。ゴジラ。ちゃんと生きてたよ。この日本で。

戦車映画の話々。パットン大戦車軍団

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 アフリカからドイツ軍を追い落とし、イタリアで暴れ回り、要衝にて包囲され孤立していた友軍を常識外れの進撃速度で救援し、ドイツ最後の大攻勢を察知しこれを防いだという、二次大戦下の米軍における最大のキーマンことパットン将軍を……というよりももはやアメリカの思う『国民的英雄』を描いた映画。
 戦史好きのみならず、一次大戦末期にて戦車を重要視し、機甲師団の編成を積極的に進言してた(けど採用されなかった)というヒトでもあるんで、戦車好きとしても因縁のあるおじさん。


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 一発でどんな映画かわからせてくるステキすぎな冒頭。


 今時の映画じゃまずみられないインターミッション(休憩)を挟み丸々3時間かけて描かれる国民的英雄の姿は、それにしても分裂症気味に色んな顔をみせる。
 戦場にいないと精神の均衡を崩してしまうほどの戦争狂いであり、規律に厳格な軍人であり。
 砲火に倒れた部下に額に慈しみ深くかき抱き、野卑な放言を繰り返しては政治的に失脚し、英軍と手柄を争い無謀な進撃を指示し、敵将の編んだ戦術論を読みふけり、敬虔に神に祈り、戦争神経症で「死ぬのが怖いんです」と泣く傷痍兵を「この臆病者め!」と殴りつけ、未だ硝煙がくすぶり焼け焦げた死体の転がる戦地に立ち「素晴らしい眺めだ」と呟く。
 これらの行為はすべて一人の、同一オッサンが行っている。
 傍目には矛盾している。支離滅裂である。つぶさに眺めていけばただの情緒不安定である。
 しかし、それでもどこか作中を通じて、このオッサンの行動にはどこかしら一貫性めいたものが感じられる。そのヒントは、映画開始まもなく本人の語った台詞にあった。
 草原に石造りの街門の残る遺跡にて、独り言のように呟くのだ。


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「ここだ。ここが戦場だ。
 市を守るカルタゴの兵士は、三方からローマの軍勢に襲いかかられた。
 そして勇猛に戦ったが、惨敗した。
 アラブの女達が、戦死者の衣服や装備を盗み、兵士は裸でうち捨てられた。
 2000年前の風景だ……そこに、ワシもいた」


 現実のパットン将軍も、どこまで本気だかわからないけれど、輪廻転生を信じ、自身をハンニバルの生まれ変わりだと称したことがあるそうだ。
 そう。この戦争が好きでしょうがない猛将は、ロマンチストなのだ。
 確かに戦争にはロマンがある。どれほど散文的に書かれた戦史だろうとも、どれだけ不毛だろうとも、人命に強い関わりがある以上、多くの人間にとって他人事ではいられず、それ故に普遍的に心を打つものがある。しかしそんなものがあったとしても、戦争というひどく巨大に散文的なものの中でどれだけの構成比率なのか。とんでもなく稀少なものなのではあるまいか。だとしても構わず、このおっさんは、下手をすると純粋とさえ形容できかねない勢いでそれを戦場を求める。
 二次大戦を人類最大の愚行と結論づけた後の世界の価値観に生きる私達にとっては、理解こそできても共感には遠い憧れだ。

 実際。もはや二次大戦下の時点でも――少なくとも、作品世界において、このロマンチストは世間から浮いていた。
 彼が戦争への憧憬を率直に口にするシーンでは、必ずといっていいほど、思想的偏りを避ける為のカウンターウェイトのように、むごたらしい戦場が同時に描かれる。或いは、臆病風に吹かれた兵士を恫喝する度に、仮想敵国へのあからさまな敵意を公表する度に、「もうそんな時代じゃない」と諫められ罰せられる。
 そうした手法で、率直に、彼の戦争への憧れと献身が異様なものとして視聴者に映される。
 事実として、戦争は一次大戦を境に、従来の戦争とは似て異なるものへと変容したらしい。もちろんかつての戦争にも略奪されるものや軍事費用に疲弊する国民は居ただろう。しかし単純に規模が違うし、意味合いも変わってくる。無差別爆撃が起き、非対称戦争がむしろ基準となり、仮想敵国を口にした政治家は民衆からバッシングを受ける。
 パットン将軍の自ら「ワシもそこに居た」と語る2000年前の戦争も、16世紀の戦争も、20世紀よりも過去に起きた戦争は全て遠い。


 その姿を、人を惹きつけてしまう戦争というものの体現ととらえるのもいいだろう。大義のための自己犠牲を強いるその精神が、副次的に戦争行為を強烈に肯定するその姿勢が、軍事大国であるアメリカの国民的英雄像として受け入れられたのも自然な話に思える。
 ただ私には、この映画にて描かれたパットン将軍の姿は、もはや失われ行くものの、あるいはとっくに廃れてしまったものへの憧憬を捨てきれず、諦めきれず、まだ存在するものと信じて足掻き尽くしたロマンチストとしてみえる。気がする。
 そうして観た方が、あらゆる時代の全ての戦争に姿と名を変え参加し、戦い続けてきたーとか語ってしまうこのおじさんには相応しい気がするのだ。
 彼の信じた「失われていく佳きもの」が果たして本当にいいものなのかどうなのか、もう私達にはわからないのだけど。


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 それはそれとして戦車の話をしようか!
 アメリカ戦車史のなかでも大事な位置を占めるパットン将軍のお話だけあって、名脇役として活躍の機会は多いです。
 多い一方で、米軍戦車も英軍戦車も独軍戦車もなんもかんも「あー。Mなんたらですねー」とアメリカ車輌ばっかりでしめられているのは残念なポイントではあるかも知れないけども、まあこの点をクリアできる映画のがよほど珍しいのでしょうがない。
 何よりも、ぬかるみの酷い十字路で戦車隊の交通整理を御自ら行うオッサンの姿がサイコーなので、未見のスジには是非とも一見求めたい。

 

戦車映画の話色々。

 ガルパン劇場版のあとに観るといいかもしれないし別にそうでもないかも知れない戦車映画の話。

 模型や史実、ミリタリー趣味やゲームなど、割と色々ある戦車好きの入り口だけど、そのなかでもそこそこ大事な位置を占めているのが戦車映画(≒戦争映画)ではあるまいか。
 そういう意味で、せっかくガルパンという格好の入り口を経て「ああ、戦車ってなんてカワイイんだろう」という事実に目覚められた諸兄の一助たるべくだらだらと戦車映画の話をしていきたいと思います。

 まあ、次にコレを観るとイイよ! だとか、これは観ておくべき! なんて上からお話が出来るほどの知識はないので「そーいやーこーいう戦車映画があったなー」「ふーんそうなのー」くらいのテンションでどうぞ。



バルジ大作戦

「ならば私たちはいつ家路へ付くのです」
「ここが我々の家だ」

 戦車映画と言えばひとまずはコレというタイトルでしょうか。
 何を置いてもとにかくカッコイイ。何がカッコイイってドイツ軍人がかっこいい。下記映像だけでも十分そのかっこよさは伝わると思う。
 後世に「ヒトラー最後の賭け」とも称されるドイツ決死の大攻勢。ティーガーを筆頭に保有戦力の集中運用を委ねられるも、疲弊著しいドイツは人的資源もまた枯渇間際。
 猛々しい戦車に対し、それを駆る戦車長たちの顔ぶれは余りに若い。

「少年ばかりではありませんか」
「だが敗北を知らん」
「戦場さえ知らない」
「彼らは命を賭けておる! それでも不満か?」

 そんなやりとりを眼前で繰り広げられた戦車長たちは、自らの士気を示すため高らかに声を合わせるのである。

 
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 パンツァーリートを聴く度に足を踏みならしてしまう奇病に罹る動画。

 うーんカッコイイ。
 一方でアメリカ軍はというと、「クリスマスまでには帰れる」を合い言葉にもはや戦勝ムード。ドイツの動きを鋭敏に察知した将校が情報を集めるべく策動するも「考えすぎだ」と白眼視される始末。
 方やドイツ軍人は亡国の危機に瀕し、命を賭し、倹約に身をやつし、捕虜を遇し、強力無比な戦車でもって戦場を蹂躙し、戦うことのみに収斂していく。
 多くの人間が幻想に抱く「憂国を湛え、騎士道精神に殉じる独軍兵士」という美しさがそこにある。
 だがしかし……と、この映画は視点の転換を求めるのである。「それは正常なのだろうか?」と。
 戦場に殉じること。それはやはり狂気の一種に過ぎないのではないか?
 その問いかけに答えるべく映像を見返すと、とたんに美しさは意味を変えて私たちに映る。
 その疑問にこそこの映画の意図を見いだしたような心地になるのである。


 というどうのこうのを置いといてもやっぱかっこいいんだけどねえー。
 高名な映画だけに賛否意見は出揃っており、「いやそれティーガーじゃなくてパットンですやーん」とか「冬の戦争なのにいつのまにか砂漠でドンパチしてますやーん」だとか、戦車的にも歴史的にも考証面でのツッコミは避けられずあくまでフィクションだと割り切る必要はあるものの、それでもやはり大空撮を用いた大戦車戦は見応えがある。
 未見のガルパンおじさんが居たならば是非とも視聴し、「パンツァーリートが聞こえてくると足踏みをせずには居られない病」に罹患してほしい。
 そういやガルパンTVシリーズでパンツァーリートが流れたときにも、後半のおねえちゃんがカッコイイシーンで足踏みめいたパーカッションが入ってたよね。

 
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レッド・アフガン


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 アフガニスタン民兵の潜む集落を一輛のソ連戦車T-54/55が徹底して蹂躙。
 父親でもある族長を惨殺された若き次期族長が、この仕打ちの報復をアラーに誓う。
 冒頭10分でこれらストーリーのあらましを終えたあとは、補給を絶たれた不毛の砂漠をひたすら疾駆し逃げ回るT-54/55と、地の利を活かしカチでこれを追いかけ回すアフガニスタン民兵のなんとも息苦しくしんどい絵面が続く。むやみに水分補給しちゃうね。

 岩がちの砂漠を、盛大に土煙をあげぶっ飛ばし続ける戦車というリッチな絵面を堪能できる本映画だけど、絵だけでなく、物語としての迫力を志すならば手っ取り早い演出方法がある。それは逃げる戦車か、追っ手の復讐者かを「怪物」として描けばいいのである。
 けれどもこの映画はそれを選ばなかった。
 思えばしみったれた、小規模な話なのではある。
 いとも容易く人倫を踏みにじった戦車はただのRPGの一発に怯えて逃げ回り、砂漠の横断をものともしない民兵は護国のためでもなくほとんど個人的な恩讐を理由にこれを追い回す。
 どちらもモンスターになりきれなかった、ただの人間なのである。
 単なるリアリズムとは少し違った、物語にスジを通すためのルールがきっちり働いた映画なのだといえる。

 とかで、トレーラー検索して気がついたけど、原題は「the beastていうのね。納得ではある。


 アメリカ人の(88年に)撮ったソ連アフガニスタンの映画だからじっとりと染みついたステレオタイプな民族観を多少さっ引いて視聴する必要こそあるものの、傑作の部類に数えられる作品だと思う。
 戦車も戦車らしく長所や欠点を晒してて題材としてちゃんと活きてるしー。冒頭の拷問もなかなか戦車らしい絵面だよな。



ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火


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 二次大戦は東部戦線。もはや揺るがぬ数的優勢を手にしたソ連軍は、しかし奇怪な噂と説明の付かない損害に悩まされていた。
 戦場に「白い戦車」が現れるというのである。深い森から突如として現れ、圧倒的な長射程と異様な精密射撃でもってただの一輛で戦線を崩壊させ、そして現れたときと同じく森の中へと溶けて消える。
 この「ホワイトタイガー」に壊滅的被害を与えられた戦場から、一人の兵士が奇跡的な生還を果たす。
 体表の9割をやけどで失いながらも一切の痕も残さず完治し、当人の記憶喪失も相俟って全ての経歴が不詳という奇怪な兵士である。
 ついでに言動もちょっとおかしい。始終無表情で、破壊された戦車のそばにぼんやりと佇み、何をしているのかと問われれば「この戦車と話をしていました」なんぞと呟く。
 来歴不詳・情緒不安定ときたら兵士として不適格もいいところだけど、しかし、優れた戦車長として認められた彼に独立部隊の長として特命が下される。
 ホワイトタイガーと呼ばれる正体不明のドイツ戦車を追い、これを撃破せよと。
 
 という日本のロボットアニメじゃあるめえしというストーリーラインのくせにやたら淡々とした戦車映画である。
 ほんとに淡々としてる。戦車映画なのに。
 戦車映画なのに「アァールピィージィイー!!!」だとか「カモーン! カモーン! カモーン!」だとか絶叫したりしない

 淡々としながらも戦場には往年の戦車があふれ、そして景気よく炎上するので一応の迫力は担保されるものの、その中心となるのが人の気配を感じさせぬ不気味なホワイトタイガーであり、同じく人的感情や恐怖心めいたものない主人公なので、戦争映画につきまとう興奮や狂乱めいた熱情がない。
 どこか冷めて、淡々としている。

 ホワイトタイガーの正体めいたものは作中にて触れられる。尋問を受けるドイツ軍捕虜が口にしたもので「あれは我がゲルマン民族の象徴だ。精神そのものだ。故にお前達では決して撃破はできないだろう」
 一方で主人公の正体も、彼に目をかける上官が言及する。「奴は戦場で死に、そして戦場で生き返りました。作り替えられたのです。戦争に必要なものとして。奴は戦争そのものです」

 言うなればホワイトタイガーも主人公もともに「戦争そのもの」だと評されている。形は違えど同じものだ。
 それならば「戦争」とは一体なんなのだろう……?
 と。そんな哲学的な話にまでストーリーの及ぶ戦車映画であって、さすがにもう「ヒャッハー!! 最高だぜー!!」というテンションでみられるものではない。
 けれども、その問いかけは、結局はどこまでいっても人殺しの道具でしかない戦車という存在に魅入られた私らにも求められるべき問いなのかも知れない。

 手放しにヒトに勧められる映画ではないけれど、妙味があるのは確かである。
 必見と言うよりも必修とでもいうべき? いやーでもおれ勉強のためとかいいつつ創作作品に触れるの嫌いだからなあー。 

雑談ログ。


「そもそも私は(任意の雑誌名)とかで面白くないマンガを読むと、もはや慣用句と化した『もう死にたい』みたいな感情にさいなまれる。
 具体的に言うなら、一週間生きるのに必要なだけの気力が少しだけ削がれてその分しんどくなる」


 ああそう。いやわからんでもないけど。
 一応は創作活動を自分の一部と自認してる身の上で、公称で何万部かは知らないけど、それでも多くの人に求められてすごい競争率を勝ち抜いたヒトだけが発表出来る場で発表された作品がいまいち面白くないとそれだけですごいダメージは来る。
 そういう意味で今のジャンプがほんと面白いのはほんと助かるけど。
 競争のトップで矢面に立って戦ってるヒトがちゃんと強いとそれだけ尊敬の念はまします。やっぱ切磋琢磨してるひとらは強いんだなみたいな。努力を肯定してくれてる感じがする。


「不毛なものはみるだけでもしんどい。
 だから私はインターネットからは距離を置いている。しんどいもん。私は議論好きで、議論をしたかったし、未だに世の中を良くしたいという願望を抱いている部分がある。
 そういう人間にとってインターネットはしんどい」


 議論ねー。したいねー。したいけどねー。話したいねー。
 例えばついったで『ガルパンのここが良かったよ』みたいな部分だけをみんなで挙げてイイネ! を押すだけじゃ同じ方向向いて平行にすれ違い続けてるだけっぽくてどっか空虚なんだよね。
 少なくとも議論ではないしね。


「議論には場が必要で、議論には共通言語が必要なんだよ。言葉の意味をお互い調節しないといけない。だからハードルは高い。
 私が映画や本に耽溺するのはヒトとの議論をある程度あきらめたからだという気もする」


 意見の塊だからね。映画も本も。問題提起の塊というか。


「対話は出来ないけどね」


 対話ね。シャドーボクシングでもだいたい自意識は満足しちゃうけどな。
 まあインターネットは……ついったは、そのへんの自意識ばっかりちくちくされる話題が多くてしんどくなることは多い。
 みんなポジショントーク大好きだからさ。
 はてなの、いわゆるマスダを囲んで叩くのがみんな大好きというか、ついったの主な楽しみ方の一つがそれなんだろうなと思えるくらい。

 最近のトレンドは同人誌即売会への参加を辞めた理由ね。
 イベントに期待するものも同人誌を書く理由も人それぞれだし、しかもそのマスダを書いた当人はもう辞めてる訳で。
 例えば、『イベント後の飲み会に誘われないのがつらいから辞めた』
 飲み会に参加させてーっていうのもコストな訳ですよ。度胸ポイントというか、MPみたいなものを消費する。
 その消費量はひとそれぞれで、結局は個人差に過ぎない。向き不向きの問題よね。
 その人は『自分に向いてなくてしんどいので辞めました』という自己分析とその結果を報告してる訳だけど、それに対して
『お前が! 同人誌に! 求めているものは! なんなんだ! そもそも! 同人誌即売会というものは!!』みたいに語気荒く回り込むヒトが出てくる。

 みんな自分の立ち位置はここでーすと表明するのが大好きなんだね。
 そういうポジショントーク。そういうのが自意識をちくちくされてしんどい。
 しかも断定的で説教ぽい口調のがもてはやされるわけですよ。こうすべきである! みたいなの。どこに向けて誰に対して説教してるだろうみたいに感じてしまう。


「わかりやすいのが耳目を集めやすいのは当然だけどな。
 日本死ねみたいな。
 実際、その話題の発端になったマスダも『イベント後の飲み会に誘われないのが寂しいんで一ヶ月とか半年とか同人書くの辞めます』じゃ誰も見向きせんかったろう。
 インターネットの意見というのはそうやって、大きな音を立てて、どれくらいヒトを集められるかーということに流されやすい。それが中心になる。
 そういう競争で、ゲームみたいなものだから。ちょっと気の利いたことの言い合い。みんなそれで楽しいみたいだからそれでいいんだろうけど。
 そのへんの行為を指す言葉が新しい概念として生まれず、大喜利という比喩がそのまんま用いられてるあたり証拠にもなってる」


 そういうのに触れては後悔してんだよねー。さわってしまった! みたいな。
 私にだって理想とするポジションはあるから、こうみられたい願望みたいなのは当然あるからそこを刺激されたら自分なりに考えてしまうわけですよ。
 飲み会参加させてーというのにMPを消費するのと同じように、飲み会にきません? て誘う側も消費する訳で。
 その消耗を相手にだけ任せるのは一種の傲慢でサボってるだけだから、望んだ結果が得られないのもしょうがないよねーみたいに。
 思ったらやっぱり呟いてはき出したいわけですよ。吐くわけですよ。そのたびになんかへこむ。

 おれがついったー好きなのはさー。そういう、ブログに書くほどではない、でもどこかで呟かなければそのまま忘れ去られるような、誰かの極私的でささやかな内情を覗き見ることができるんで好きーってのがあるんだけどさ。
『自分の金で食べても焼き肉はうまい』とかさ。『近未来で地球外の惑星なオープンワールドゲームで首の長い生き物が出てくるとそれだけで「生態系!」て感じがしてポイントあがる』みたいなの。

 しかし実際どうすりゃいいんでしょうね。自意識。
 自意識にふたをし続けるか、いっそ自意識がしんどいなら不感症になって、気にせず厚顔無恥になっちゃうか。
 ……でも気にしないのだけはイヤだな。それだとワイドショーになってしまう。アレはああいう、自意識や含羞というものをセルフキルできるプロが作ってるものなんだろうけど。


「偉いひと曰く、勉強しない方が偉そうでいられるってさ。それとは別に夏目漱石がそういう含羞をもたないのが今の日本の流行りっぽいからヤベーなーこれー滅ぶわー日本マジ滅ぶわーみたいなことも言ってた」

 勉強ねー。
 含羞ねー。
 謙虚ね-。
 結局は謙虚でいなさいってことかね。
 

「勉強したら勉強しただけしゃべれなくなる、みたいなことは色んなヒトが言及してる。
 逆の例もあるけどね。翻訳者はみななぜか自らが選んだ第二言語をこの世で最も優れた言語だと思い込み他の言語を見下してしまうーみたいに。
 米原万里さんがそういってたんだけど。まあこの件に関しては誰もが多国籍な言語が飛び交う教室で幼少時代を過ごせるわけじゃないんですよとも言いたいが」

 傲慢は狭窄した視野から生まれるのだな。
 まあで自意識を手放すのには早いと思うんですよ。実際。
 自意識を手放してしまうとフルハシヒデユキとかサクラタマキチとかになってしまう。
 いやなれるものならなりたいけど。
 自意識を刺激される、自分の立ち位置を表明したくなる話題ってのはそれだけ自分自身に関わりのあることだからさ。それに関して思いを巡らせるのは割と悪くないことなのだという予感はある。
 それをはき出すかどうかはまた別にして。


「穴でも掘ってそこで叫んでりゃいいんじゃねえの。いずれにせよ芽はでるけど」

大洗女子の搭乗車輌の理由とかその2。

 そういえば、ガルパンて戦車の性能に関してあんまりネガティブな話しないよね。
 特に大洗が保有する戦車は視聴者にもそこはかとなく伝わるだろうけどどれもこれもなかなかになかなかな性能なんだけど、本来のコンセプトにある「弱小校が強豪に立ち向かう」みたいな物語のスパイスとしては、そのあたりの話を強調しない方がかえって不自然な気がする。
 とはいっても完全にないわけではない。「個性的な戦車ですこと」だの「こんな戦車ばっかり連れてきて、カチューシャを笑わせるつもりなのね!?」だの。


 おそらくは敢えて控えめな部分なんだろうと察せるところではありますが、そこんところを敢えて、わざわざ、「らしい」「じゃないかな」「と誰かが言ってた」とエクスキューズ満載の知識でまとめていこうと思います。




38(t)戦車 故郷を守る。という大義。

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 秋山殿のいうとおり、(t)は重さのことではなくて、ドイツ語でチェコを指すTschechischのT。
 三八年式チェコ製戦車。


 一次大戦を終えてオーストリア・ハンガリー帝国から独立を果たしたチェコスロバキアは、政治的軍事的に不安定な地理上の要請から元より大急ぎで武装の近代化を図っていた。けれども結局、脅威を増すナチスドイツに欧州を、あるいは世界経済安定のための人身御供のように併合され、自国を守るべく設計された最新鋭戦車はすべてドイツ軍の為に生産されることになった。というヒストリカルな経緯を持つのでこういう名称。

 
 性能面はどうだったかというと、戦間期において工業力という点ではどの国もどっこいどっこいだった中で、軍需工場を多く抱えていたチェコは各国から一歩先を行く技術を有していた。そんなチェコが先んじるべく開発を急いでいたのだから、当時としては・軽戦車としては・という但し書きこそ必要なものの、高水準かつ機械的信頼性に長けた上々の完成度だったらしい。
 ドイツ自国肝いりの三号戦車・四号戦車の生産が遅れるなかで、別の生産ラインから製造される38(t)は機甲師団の車輌不足を補い、緒戦は主力として立派に勤めを果たし、大戦後期まで自走砲や対空自走砲に改造されながら戦い抜いた。その評価はチェコ併合による最大の恩恵はこの戦車にあった」という誰かさんの言葉に表されている。


 という話なんだけど、メタなお話をするとこれだけ献身的な戦車になんで、あの、生徒会チームことカメさんチームが搭乗してるかがちょっとわからない。
 戦車長兼装填手兼砲撃手兼、砲塔手動回転要員というお仕事を桃ちゃんに押しつけたかったからなのか。
 それとも、三突・四号戦車にレアなポルシェティーガーまで保有してるのを思うと、かつて大洗に存在した戦車道チームはドイツ戦車に傾倒してたーなんて裏設定があるんかなーとか。


 或いは……ナチスドイツの領土的野心に翻弄された38(t)の開発経緯が、物語初期の生徒会チームの横暴(曰く正当な権利)に重なるからでしょうか。
 恫喝めいた併合、そうして麾下に入れた存在にすがらざるを得ない状況。因果なものやね。
 いずれにせよ、国を守るというのは(チェコスロバキア・ドイツのどちらの視点にたっても)大変なことでありますな。



38(t)改 ヘッツァー仕様 為政者は常に夢をみる。

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 上述の通り、38tは終戦までに様々な派生系を生んだ。軽駆逐戦車に分類されるヘッツァーもその流用系の一つである。

 ……というのは、かつて戦車模型解説書に頻出してた間違いらしい。らしい、というのは私自身そーした記述を読んだことがないからだけども!
 詳しく言うと、38tが偵察用車輌として改修を試みられたもののお蔵入りとなった、その38t改の設計を流用し開発されたのがヘッツァーであって。38tから直接ヘッツァーに改造された例は全くない+38tから改造するのは相当無理がある。というのが史実だそうだ。


 少しだけ遠い世界の話だけど、このへんの戦車模型由来の誤解というものはそれはそれである種のおじさんたちにロマンや郷愁を感じさせるものだそうで。かつて戦車模型ブームを生きた少年にとって、戦車知識は模型を通じて得るものだった。その一方で、資料不足や販売戦略などの都合でもって模型についてくる解説書が史実的に正しいとは限らない時代でもあった。
 例えば、ヤークトティーガーという戦車が、有名な将校の名を取って「ロンメル戦車」として売り出されたものの当のロンメルさんはその戦車に乗ったことなんて一度もなかったりとか、そういう話?


 作中では「ヘッツァー改造キット」を購入してきて、いかにもプラモデル的な改造を施してるけど、この、多少現実面にムリがあろうがかつてのプラモデル少年達のあこがれを実現するーみたいな遊び心もまたガルパンが叶えたかった戦車ロマンの一つなのかも。そうでもないかも。
 かくいう私は戦車模型一度も造ったことないのが微妙にコンプレックスなんだけどなーまあそのうちねー。


 で。先に書いたけど、このヘッツァーちゃんは駆逐戦車である。
 砲塔がないので、細かく分類すると、通常言われる戦車とは別な区分となる。
 だけども三突ちゃんの分類である「突撃砲」でもない。「駆逐戦車」である。
 じゃあ突撃砲と駆逐戦車の違いは何かというと。当時のドイツ軍の偉い人たちがこんな会話をしてたらしい。


砲兵科「戦車いいなー。ウチにもくれよ。そもそも戦車って歩兵補助のための兵器だったんだから戦車科ばっかりに持って行かれても困るんだけど」
戦車科「ヤだよ。ただでさえ戦車の生産追いついてないのに。砲兵科は素直に砲を人力ででも引っ張ってろよ」
砲兵科「えー? そういうこという? じゃあ生産性あげるために砲塔造らずに車体に直接大砲のっければ、ほら。これ戦車じゃなくて大砲じゃん。歩兵とともに突っ込むから突撃砲と名付けよう」


 この突撃砲がすばらしく使い勝手が良かった。
 そこからしばらく。


戦車科「……突撃砲、調子いいよね。装甲厚くできるし対戦車砲のっける余裕あるし。ていうかさ、ウチがいちばん対戦車戦やんなきゃいけないからそれ、欲しいんだけど」
砲兵科「何言ってんだよ。砲なんだから砲兵科のもんだよ。悔しかったら砲塔のない戦車でも造れば? それでなくとも三突の工場爆撃されちゃって今後レアモノになる可能性あんのに」
戦車科「ひどいこと言うなあ……じゃあアレだ。三突工場が燃えた代用にチェコで製造が計画されてる無砲塔の新車輌。アレを対戦車用ってことにしてしまおう。そうだな。名前は駆逐戦車とかそのへんで。戦車戦車」
砲兵科「なんでそういうことするの?」


 という話で実質的な違いはないみたい?
 まあ突撃砲なら歩兵支援なんで榴弾とか撃つのに適した砲が、駆逐戦車なら対装甲用に砲身の長い砲がーとか傾向は分かれるだろうけど。



 余談が続いて性能面の話が後回しになってしまったのでざっくりまとめると。
 たいへん便利に使い回していた三突のメイン生産工場が爆撃を受けて大慌てしたドイツは、急ぎチェコの工場に生産を依頼する。しかし設備の問題でそう簡単に同じ車輌は造れない。ならばと、お蔵入りになった38t改修型を元に無砲塔車輌を製造しよう。という流れでもって急造されたのがヘッツァーたん。
 砲撃力も稼働率も良好で、しかも生産性も燃費もよろしい。困窮の兆しが見え隠れしていたドイツ軍には何もかもありがたい仕様でここぞとばかりに量産されたものの、急造品だけあって欠陥も少なくなかったらしい。
 一つは装甲が薄いこと。せめてもと傾斜装甲にしてとても愛らしい外見になったはいいものの、おかげで狭い。
 そして軽戦車だけあってエンジンに不足があり、見た目のコンパクトさの割には速度が出せなかった。ここに来てカメさんチームの別に果たされなくてもいいカメという面目が躍如された。
 あと、元々が軽戦車の車体に偉い人からの要求を満たすべくムリに砲を積んだもんだから、重量バランスがとれず静止状態だと右に大きく傾いてたらしい。なんてプリティー。
 ついでに、右から装填を行うよう設計されていた砲を急造設計のアヤでそのまんま搭載したあげく左側から行わなければならず、これも兵隊さんからは大不評だったそうで。
 38tからの一人多重兼任から解放された桃ちゃんはまだまだ受難の役目が続くようだけど。



 都合良くまとめるならば、為政者の都合を現場の工夫と努力とで補わなきゃなんない戦車である。
 これまで伏せていた廃校の危機という問題を仲間と共有し、同じ目線で戦うことを受け入れた会長が改めて搭乗するのに相応しい車輌、と言えるかも知れない。



B1bis お硬いだけじゃ生き残れない。

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 ガルパンではいまいち活躍の機会がないフランスの車輌。二次大戦最初期の戦車である。
 分類上では重戦車。こんなだけど。
 こんなだけど、とはいうものの、大洗の所有する戦車のなかではポルシェティーガーに次ぐ装甲厚を誇る(P虎が終戦間際に出てきたことを踏まえると、大戦初期にこんなモンを用意できていたというのはなかなかとんでもないことに思えるけど……そのくらい大洗の車輌の防御力がいまいちという話でもあるだろうか)。
 史実にて配備された二次大戦緒戦だとドイツ戦車では貫徹不能な重装甲を誇っていた。まあ緒戦のドイツ戦車ってどこでもこんな話があるけど。
 しかし、後世の視点から見ると、その重装甲思想が仇となりドイツの前に屈してしまった、という話になる。


 設計は先進的だった。
 二次大戦の極々初期から対戦車を視野に入れた長砲身を装備し、車体に据えた短砲身も限定的な旋回に限られたものの、車体そのものの旋回性能が優れていたため(なにせハンドルで操縦できる)照準は比較的容易。
 床下脱出ハッチや機械室との隔壁など搭乗員の安全にも配慮した設計も加えて、装甲厚のみならず防御面にも秀でていた。
 要するに、攻防ともにドイツ主力である三号戦車や四号戦車を上回る性能だった……にも関わらず、フランスはドイツの侵攻を阻むことはできなかった。
 その所以を一つ一つ追っていくと、いかにジャーマンタンクスの戦術思想と設計とがいかに優れていたかの証明ばかりになる感じ。

 一つは通信装備の差。ドイツは全車両に音声通話可能な設備実装とリッチなことをしてたけど、一方B1bisはモールス信号による通信が基本で実戦中にそんなことやってる暇なんぞなかったと察せられる。
 一つは搭乗員による作業効率の差。同時代、ドイツは三人乗りの砲塔を設計し、戦車長は指示に専念できるよう画期的な戦術をとっていた。けれどもB1bisの砲塔は一人乗りであって、砲手も装填手も射手も指揮も索敵もみんな一人でやらなきゃなんない。
 ……とかいうとどこぞの桃ちゃんと一緒だね。いばりんぼなガルパンキャラは過密な作業量を求められるという法則?
(まあ桃ちゃんは会長がサボってるからってのもあるけど!)

 もう一つは索敵効率の差。砲塔ののぞき穴の数が限られている上に、この砲塔にはハッチがなく、色んな戦車長がやってる上半身を出して周囲の監視ーという行為ができない。外の様子を子細に知りたければ後部の搭乗口から身を乗り出すという危険行為が必要となる。
 これに関していえば優劣の問題というよりかはそれを進んでやってのけたドイツ戦車長連中がちょっとクレイジーだったけの気もするけど。

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 欠陥となる不便さも女子高生がやるとカワイイ仕草になるんだからずるいよね(なにが。


 極めつけは運用思想の差でしょうか。
 ドイツは戦車の集中配備と運用を目的とした機甲師団をいち早く実現させることに成功したけれど、フランスは要塞の建設など国境の防衛に力を割いた結果、戦車は歩兵補助という思想から脱するのに遅れ、B1bisという運用次第ではドイツ戦車を圧倒できそうな車輌を歩兵部隊に分散的に配備することしかできず、結果として、一対多の状況を強いられ各個撃破されてったそうな。



 まあ、上述の格差は別にフランスが悪かったわけでもなく、各国どこも似たり寄ったりな境遇でみんなドイツの電撃戦にはびびらされたのだと察せられる。

 性能として優れた部分はあったものの、ドイツの戦車運用思想から大きく外れていたB1bisはフランス陥落から追加で生産されることはほぼなかったそうで、多少似通った境遇の38(t)と比べると結構な扱いの違いではある。
 そういえば生徒会チームも風紀委員チームもそれぞれ指導するべき立場な訳で、そこも似通う部分はある。それぞれの分岐になんとなく思いを馳せてみたくなるね。
 要するに、頑固(硬く)て不器用。そういう意味では風紀委員チームが搭乗するのに相応しい感じがする。するね。するよな。
 
 


三式中戦車(チヌ) 現実を知らない箱入り娘。

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 二次大戦末期の日本車輌
 あたまのひん曲がったトゲのようなアンテナのようなそれは機銃架。カワイイ。戦車道には無用だからと取っ払われてるんでしょうね。
 砲身根元下部の出っ張りは野戦砲を流用したんでただ余ってるだけの部分で特に意味はないらしい。カワイイ。
 八九式のしっぽとか、チハたんのハチマキとか、日本車輌にはカワイイポイントが多いことでありますな。
 アメリカさんが圧倒的工業力で大量生産しまくってるM4シャーマンに対抗すべく急造された日本陸軍最終兵器。ただし、生産時には送り届けるべき戦場ももはや遠く、本土決戦用に温存されたまま終戦を迎えることとなった。


 それにしても。
 ドイツ軍が「T34やべー。T34やべー」ソ連の傑作戦車にびびってるのと同じ頃。
 日本は戦車のM3スチュアートに泣かされてて
 連合軍がティーガーやべえ。まじやべえ。M4を束にしてぶっつけてもかなわねえ」と青ざめてるのと同じ頃。
 日本はそのM4の装甲を貫けるよう必死に戦車開発してたという話な訳だけど。
 なんだか侘しい。
 まあティーガーは同盟国の武器であって、連合国主力のM4のラインに合わせて戦車を新造するのは自然なことではあるけども。


 性能をざっくりいうと、攻撃力はM4シャーマンとそこそこ並べる。装甲は正直薄い。機動力も重量に比して出力が足りてるとはちょっと言い難い。くらいの性能に収まる感じでいいのかな。
 他、欠かせないステキ特徴として(ガルパンではまだ描写の機会がないけど)砲撃は縄を引っ張って行う。という点がある。
 M4の装甲を貫徹できる砲を求めた結果、野戦砲を流用するのが手っ取り早いと判断されそれを搭載したからそんな仕様だそうで。問題点としては照準を定める砲手はこの縄を引っ張れない。だから、撃発手という役目を誰かに負わせるか、その人員が確保できない場合は主に通信手が引っ張る予定だったらしい。
 要するに。
 戦車長が敵機の方向を指示し、砲手がそれに狙いを定めて、撃発手が合図に合わせて紐を引っ張って発射。と。
 うーん。チームワークを問われますね(控えめな表現。
 役割としては、戦車長兼通信手のねこにゃーが縄を引っ張る役目なんだろうか。


 ただの憶測だけど、TVシリーズにてももがーが、腕力が足りずむぎーってなってたあの描写は、この縄を引っ張る部分でも同じような描写をしたかったのではなかろうか。それがお蔵入りになった理由まではわかんないけど。
 であればこそ、劇場版の筋トレ描写に繋がるんじゃねーのかなー。どうなんかなー。


 そんで、なんでこの三式中戦車にネトゲチームが乗っかってるかを照らし合わせてみると。
 温存されてたわりに温存されてたほどの活躍ができなかった……とか(TVシリーズ11話)
 仮想戦力とのシミュレーションばかりで実戦となると……とか。なんだかアリクイさんチームに申し訳ない感じの推察ばかりになっちゃうな。




ポルシェティーガー 少女は泥にまみれて笑う。

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 二次大戦最中に設計されたドイツ車輌。の、俗称。
 ここでいうポルシェとはポルシェ博士のことであって、(私のような)クルマに詳しくない人間でも名前は知ってるかの高名な自動車メーカ-のポルシェのポルシェである。
 まあ今でも名の知れている自動車メーカー(というか重工業メーカー)はだいたい二次大戦に関与してるけど。当然と言えば当然か。

 かの高名なティーガーには競争開発による設計案が二種あった。いうなればティーガーの腹違いの兄弟というか、生き別れというか。
 それの競争に負けた側がこのポルシェティーガー。 
 選ばれなかった理由は明白で、そもそもまともに動かなかったのだ。

 ドイツは緒戦の勝利にて戦車運用の戦術的正しさこそ証明したものの、フランスでもイギリスでも敵車輌撃破に苦心した事実は無視できなかった。
 なので、それまで重視していた走攻守の調和した設計思想を一時的に放棄し、重火力・重装甲をコンセプトとした車輌の開発を急ぐこととなる。
 そこで問題になるのはやはり重量。
 単に足が遅くなるという話に留まらず、それだけ負荷がかかるモノを故障なく、スムーズに動かす必要がある。
 ……ならば、その負荷の大部分がかかる変速機を取っ払っちゃって電気モーターで動かしちゃえばいいんじゃね? というのがポルシェ博士のひらめきだった。

 しかし博士の発案は実らなかった。先進的に過ぎたのか、開発期間が足りなかったのか。
 大質量を動かすための大電流を生み出すべくがんばったエンジンは火を噴き、モーターは焼き切れた
 エリカが「この失敗兵器!!」と罵倒したのは彼女の口が悪いのではなく単なる事実なのだな。

 なので、本来であれば「幻の試作機」くらいに収まるはずの車輌だったのだけど、なぜだか採用試験をパスする前に車体が発注・製造されてたらしい(これの理由は博士が成功を確信してたからとか、ヒトラー総統のお気に入りだったからとか、それだけ実戦配備を急かされていたからとか色んな説を聞くね)
 ただでさえ物資に困窮する戦時中にそんな大量な鉄の塊をムダに寝かせるわけにもいかないんで、戦車とあらばとりあえず突撃砲に改造するドイツの例に漏れず、ポルシェ博士のファーストネームをとって「フェルディナント」と名を冠した重突撃砲として生まれ変わったそうな。

 余談を続けると、このフェルディナントは運用部隊からの評判がスゲー良かったらしい。
 指揮官からは「最高かつ最強の兵器」とまで評され、一方、相対したソ連兵は以降ドイツ側の突撃砲を全て「フェルディナント」と呼ぶようになったほどの衝撃だったとか。
 後に更なる改修を受けて「エレファント」と渾名されることとなるそうだけど……虎は生み出せなかったものの、象を生み出すこととなったこの博士はやっぱり天才だったんかなーという気になってくる。
 象を産みだしたに飽き足らず、ネズミ=「マウス」まで設計してるんだけどね。ポルシェ博士。


 とかで。なんでポルシェティーガーレオポンこと自動車部チームが搭乗してるかはもはやいわずもがなである。
 なんつったってスポーツカーで高名なポルシェの名を冠する戦車だし、これだけ整備に手間のかかる車輌もそうそうあるまい。
 それに加えて、あの宮崎駿監督がかつて連載していた「雑想ノート」の一篇である「泥だらけの虎」のオマージュも込められていると思う。
 昼も夜もなく、砲声の轟くただ中だろうと工具を手放すことなくかけずり回った整備兵のお話で、彼の随伴する車輌がポルシェティーガーなのだ。


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 ユーモラスながらも凄惨さの伝わる筆致。
 一方、これが自動車部となると、故障の度に、どこか嬉しげに、ほがらかに修理をするのだ。これはこれで、戦車道っぽくはある。

大洗女子がなぜその戦車に乗っているかをメタ的に。

 ガルパンの選んだ工夫のひとつに、「戦車をキャラクターとして描く」というものがあると思う。
 戦車の性能のみならず、それの搭乗員も、個々人を丁寧に描くというよりかはチームとしてひとまとめにしたうえでキャラクターとして扱う。そんな工夫。
 であればこそ、国籍問わず集められた大洗女子の戦車たちには、その戦車が選ばれ、その戦車の搭乗員が選ばれた理由がそれぞれにあるはずです。たぶん。
 なぜ主人公がⅣ号戦車に乗るのか。なぜバレー部が八九式でなぜ生徒会が38(t)なのか。
 そのへんを各戦車の来歴覚え書きをだらだら垂れ流しつつ、探っていきたいと思います。



Ⅳ号戦車 満たされた主人公の器。

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 戦車大国ドイツにおいて、二次大戦の初めから終わりまで最も多くの戦場を経験した戦車――という大層な肩書きの割に、ドイツには他にティーガーだのパンターだのとあまりに有名で伝説的な存在があったため、主役の座に登ることがそんなになくモブ的立場にいがちな傑作戦車。

 Ⅳ号というからにはもちろんⅢ号戦車もいて、本来、ドイツ電撃戦の主役になるはずだったのはそのコだった。
 しかしこのⅢ号。開発の遅れなどが影響し対英でも対ソでも対仏でも敵車輌撃破に苦戦してしまう。一方、火力支援というコンセプトで設計されたⅣ号戦車は砲の大型化を受け入れる余裕があった。
 二次大戦において急騰した「対戦車」という用兵上の要求を担うため、また、兵器としての配備数を満たすため、砲撃力と生産性とをバランス良く兼ね備えたⅣ号戦車は、数多くの改修を受けながら、機甲師団の主力として第三帝国の滅亡の日まで二次大戦を戦い抜くこととなる――。

 と。いうこれらあらましをまとめてみると。

  • 将来を嘱望された兄の背後にそっと控えていた弟分。
  • しかし兄の失敗を補うために自らが最前線にたつ。
  • そして才能を見いだされ、次第にエースとして認めらていく。
  • だがそれは苦境に立たされた国を救うために数多くの修羅場を経験するということであり……。
  • 自らの力が及ばない戦場にあっても撤退は許されず、最期まで最前線に立ち続けた。


 ほら。ものすごい主人公っぽい。
 華々しい活躍の陰、という立ち位置がそもそも西住ちゃんっぽいところがあるし、気がつけば主人公という巻き込まれ型もそれっぽく、改修を受けて初期型とは正直別物とまで性能がチューンされていくところなんかロボものの王道そのものじゃないですか。

 他にもこのⅣ号ちゃんが主人公機に選ばれるに相応しい車輌だった点があり、

・3人乗りの大型砲塔を実装し、搭乗員によるチームワークの重要さを世に知らしめた戦車(Ⅲ号戦車と同時期だけど)。
・搭乗員の安全性に考慮して脱出口を設けたのか、色んなところがやたらとぱかぱか開く(五人が思い思いのところから顔を覗かせている絵面を連想しよう。

 等々。主人公機であることに納得ばかりが先行しますが、誰もが知る花形戦車でなく、敢えてⅣ号を選んだのは水島監督の肝いりだそうで。慧眼と評さざるを得ません。

 ちなんで、ある意味では主人公の座を蹴落とされた感じのⅢ号戦車はガルパンでどうだったかというと、マウスの後ろでやーいやーいと粋がってたら流れ弾にあたって退場、というアレだったりする。




M3中戦車リー 7人乗りのかしまし戦車。

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 失敗戦車……とかいうと色んなひとから怒られる。

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 実際のとこ、戦場でも賛否両論だったというか、そう扱われるくらいちぐはぐな面の目立つ戦車だったらしい。
 まず開発経緯からして少々ちぐはぐ。
 二次大戦緒戦、ドイツの電撃戦にびびったアメリカは慌てて戦車開発に乗り出すものの、「対戦車砲とかいう大重量を砲塔に乗っけて、しかもそれを回転させるとか、いきなり開発できるもんなの?」という不安があった。
 一方で、ドイツから散々痛い目をあわされている真っ最中のイギリスが「お前んとこの工業力で戦車造ってくれよとっとと」とせっついてくる。
 連合国を慌てふためかせるほどに、ドイツ電撃戦の侵攻スピードが当時の常識から大きく逸脱してたという話でもあるかも知れないけど、ともあれ「それじゃあ対戦車砲は限定旋回方式にして、全周型の副砲を乗っけて、ついでにイギリスの注文に応えて通信設備を実装して……」と急造されたのがこのM3中戦車ちゃんだった。

 あくまで「まにあわせ」「その場しのぎ」のつもりだったんだけど、イギリスに急かされたこともあってやたら大量に製造してしまい、様々な国にレンドリースされた結果、色んな戦場に紛れ込んでしまった。

 ところ変われば戦争も変わる。その評価がちぐはぐな所以は国によって求める性能に違いがあったからこそ生まれたものらしい。曰く。

  • 榴弾を使えるのがいいね!(イギリス戦車が榴弾を使えないことのがおかしい気はする)
  • 機械的信頼性高くて故障がないのがいいね!(イギリスの巡航戦車が故障しすぎという話もある)
  • 通信装置の質がいいね!(なのでソ連兵はこの戦車から通信機だけ引っぺがして使ってたらしい)
  • 牽引車として改造したらすげー使い心地いいよ!(もはや戦車ではない)

 悪いところをあげれば。

  • 主砲と副砲と用意されたところで指示しきれないし……。
  • 対戦車用の主砲なのに旋回させられないから脚で攻めてくるドイツ戦車に太刀打ちできないし……。
  • なんかノッポで目立つし的にされるし……。
  • ぶっちゃけ七人乗りの棺桶。

 等。ついでに、このM3中戦車は日本軍とも交戦経験があるらしく、日本兵からの評価はそのでかさも相俟って畏怖をまき散らす巨人のようにみえたとかどうとか。
 場所が変われば戦争って変わるもんですね。

 等々と。ちぐはぐさと、6人で登場するかしましさまで含めてその場の雰囲気に生きる一年生チームが搭乗するにとても相応しい車輌(それでも最大搭乗員数まで一人足りない!
 それを指揮する澤ちゃんの苦労も偲ばれるところではありますが。



八九式中戦車 飛ぶことをあきらめないアヒル

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 惜しい。実に惜しいんだけど。
 先にバレー部ことアヒルさんチームの話をしてもいいですかね。
 何事も「根性ー!!」で解決する癖のあるキャプテンに率いられるアヒルさんチームは、そのありあまる体育会系気質からか、あるいは廃部という挫折をすでに味わっている為か、どうやら練習量が抜きんでているらしく、戦車道始めたての他チームと同期のはずなのに一歩や二歩ほど抜きんでた練度を作中の折々にみせています。
 いちばんわかりやすいのが命中精度。行進間射撃でさえ割とばんばん当ててたりする。
 単なる練度だけでなく、バレーの符号を用いたセットプレイの研究も旺盛で、逆境にもへこたれない精神力、命令に忠実なチームプレイ精神、そして性能差を言い訳にせず常に勝利を望む鋼の向上心……。
 実際んとこ、悲願かなってバレー部復活したらかなりええとこまで行けるんちゃうかなーと思えるくらいの努力の天才っぷり。
 搭乗員の人間的性能という意味では作中屈指の能力を有する彼女たちは、何が惜しいかというと、そりゃもう八九式に乗ってると言うこと自体がもう惜しい

 八九式の何が惜しいか。
 まず砲撃力がない。そもそも戦車戦を考慮に入れられてない砲門は弾速に乏しく、装甲を貫くだけの運動エネルギーを得られません。
 そんで装甲がない。そもそも重機関銃さえ受け止められないその薄い装甲にかわいらしくびっしりとまとうリベット留めは、被弾により鉄板がたわむとその歪みで弾けて外れ、中で飛び跳ね搭乗員に負傷を負わせる原因にさえなります。
 あと速度もでない。戦車に乗っけるにあたって何かと利点の多いディーゼルエンジンを先進的に搭載したはいいものの、ガソリンエンジンと比較して馬力が出せず、何より工業力がまだまだ発展途上だった日本は高出力化も果たせなかったそうで。
 さらには改良の余地もない。そうしたキャパシティに不足してると史実で判を捺されている。

 要するに、何もかもに欠ける八九式中戦車だけど、それもしょうがない。単純に型遅れな品物なのである。他のガルパン登場車輌が軒並み「二次大戦初期もしくは最中・後期」に開発された車輌なのに、八九式ちゃんはいわゆる戦間期、二次大戦前に開発運用された機種なのである。
 誤解を承知で例えるならば、高校生の試合に中学生が参戦してるようなものでしょうか……いや、小学生かも。

「どうやったら活躍できるの?」と放映最中から疑問のあがる勢いな八九式ちゃんだけど、実際んとこ(どこで聞いたか覚えてない話だけど)制作スタッフも「どうやって活躍させよう……」と頭を抱えていたらしい。
 当然浮かぶ「そもそもなんで参戦させたの?」て疑問には(これもどこで聞いたか覚えてないんだけど)監督が実際に乗ったことのある車輌だからーというお話が。

 しかし、その一方で、性能的にどうしようもない八九式中戦車という車輌が、公式試合で、並み居る傑作選車相手にどうにかこうにか立ち回ってみせるという、そのロマン。
 戦車道が持つロマンの一端を担っている戦車であることにはまちがいないでしょう。

 まとめると、根性がなければどうすることもできない車輌に、
 根性でどうにかしてきたバレー部員が搭乗している。この美しさ。
 しかもこのバレー部キャプテンがちびっこなのが、また。




 

Ⅲ号突撃砲 長所も短所も用兵次第。

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 通称三突ちゃん。ドイツのⅢ号戦車を突撃砲に改造したからⅢ号突撃砲
 厳密にいうと戦車ではなく、突撃砲
 どう違うのかを一言でいえば「回転砲塔がない」という点さえ抑えておけば大体大丈夫です。大体。例外も多いけど。まあ大体。
 同じく砲塔がない戦車でも「駆逐戦車」という形で戦車扱いされてたりもするんだけど、このへんの説明は追々。

 旋回式砲塔を持つことの利点は先に述べたとおり。だけど、これを取っ払い、車体に直接大砲を乗っけることはそれはそれで無視できない利点がいくつかあります。

搭載する砲をワンランクでかくしても平気。

 簡単に言えば砲塔を取っ払った分だけ重たい大砲を乗っけても大丈夫になるという話。
 多少詳しくいうと、砲塔に長く重く攻撃力のある大砲を乗っけたくとも、それを旋回させるメカニズムに相応の負担がかかるのでやはり限界がある。エンジン出力だとかウェイトバランスとかの兼ね合いもあるしね。

軽くなった分だけ装甲を厚くしても平気。

 上記のと併せて、要するに、簡単に軽量化可能とまとめてもいいかも。
 同じエンジン、同じ車体でも、突撃砲(駆逐戦車)のが装甲厚も砲攻撃力もワンランクアップさせられます。

生産性が上がる。

 複雑な砲塔部分のメカニックをすっとばして作れるわけですから。
 戦車道にはほとんど関係のない話だけど、兵器としてみるならとても大事な点。
 先に、ドイツ機甲部隊において主力を勤めたⅣ号戦車ーみたいな話はしたけれど、それは「戦車に限るなら」という話で、戦闘用車輌という区分でみるならドイツで最も生産された車輌が三号突撃砲になります。
 大洗で売れ残ってた理由もたぶんそのへんの割とありふれた車輌だったからじゃないかな。


 欠点はやっぱり射角が限られてしまう点でしょうな。
 車体ごとキャタキャタキャタと旋回しなきゃ撃ちたい方向へ撃てない。
 接近されて側面へ回り込まれたらなかなかどうしようもありません。

 要するに、「足回りが不便になる代償に、攻撃力と防御力を向上させた」みたいな性能に収まるわけで、運用の仕方さえ間違わなければツボにはまる性能となっております。
 史実の三突ちゃんもそうでした。
 敵の侵攻ルートを先読みし、待ち伏せの一撃。
 あるいは同ランクの戦車よりも厚い装甲を活かし拠点侵攻。等々。
 何せ二次大戦緒戦では敵車輌の重装甲に散々泣かされたドイツ軍です。生産性が高く、かつ対戦車能力の高い砲門を積める兵器となれば大急ぎで開発するに足る存在。
 大洗にとっても、戦力が強化されるまでは頭一つ抜き出た砲撃力を持つ車輌であり、「良かった……三突ちゃんが大洗にいてくれて、本当に良かった……」てシーンが少なからずありますね。

 策にハマればコスト以上の働きをみせてくれる、という点では、そのへんの戦術史にも造詣の深かろう歴女チームが搭乗するに相応しい車輌ともいえるでしょう。
 策を弄しすぎて策に溺れるのはまあご愛敬として。



 残りの車輌についてはまた日を改めて。

tehihi.hatenablog.com

ポケモンコマスターの初心者から中級者向けの攻略話。

 読んで字のごとくです。
 このゲームにおいてナジャさんがかわいいということよりも大事なことなんてあるのかしらとは思いますが、攻略の基礎部分に関して、なるべく簡便に、このへん意識してるとコマスターがただの運ゲーでなく、戦略次第で十分勝率は変わってくるようになるんじゃないかなー。なるんじゃないかなーという気がする覚え書きみたいなもんを垂れ流していきます。


気長にやろうぜ。

 最初に言うことかなコレ。まあ最初にいうことかな……。
 今んとこコマスターというゲームの明確な欠点はコレでしょう。とにもかくにもフィギュアもプレートも集めづらい。

 手駒が増えると戦略の幅や対策も立てやすくなり、運以外での勝負も通用しやすくなりこのゲームががぜん面白くなってくる……んだけど、そこまでがちょっと遠い。
 ガチャを回せば即強くなれるかというとそうでもないのがまた問題に拍車をかけてる感じではあるものの、課金額が即勝率に跳ね返ってくるようなゲームとどっちがマシかと問われたらば……現状もやむなし?

 ま。サービス稼働まもないことだし、地道に気長に。
 周回そのものはカルロ任せでAIをぺちぺち連打しつつアニメでもみてればなんとかなったりならなかったりするので。


 せっかちなひとはプラスパワーはとっとと購入してしまうという手も。それだけ重要かつ基本のプレート。
 後で余って後悔する覚悟も必要だけど、早めに入手できていればそれだけこのゲームのコツを掴むのにも役立つかもしれない。
 ちなんで、最速でドロップ入手できるタイミングはナジャさんとの対決(2-15)なので、そこまでたどり着いたらプラスパワーをくれるまでスタミナの全てをナジャさんに捧げ続けるのもいい。
(3-3まで進めばベイリーフとプラスパワーの両方を狙えるんでそっちのがオススメだけども)


自分から攻撃を仕掛けることそのものが悪手?

 これは図解で。
 とおせんぼをしてゴールの道筋を塞ぐゲームにおいて、自ら盤上からコマを取り除き、相手に手番を渡す……ということがどれだけヤバいことかという話。
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タイプ相性はないけどポケモン同士の相性はある。

 攻撃力もそれらの出目の確率も全て明示されているゲームなので、そのへんしっかり吟味すれば分のいい賭けを選んで目を張っていけるはず(はず)。

 だから盤上でぶつける相手の目処を立てておくのが戦略の基礎。まあランクマッチだとあんまり時間かけてるとあっというまに時間切れなんだけどー。


ひとには勝負しなければならないときがある。

 例えばナジャさんが「なんだか今宵は、一人でいるには寂しい夜じゃのう……そうは思わんか……?」とかささやきかけて来たときとかですかね。

 コマスターは基本的に攻撃を仕掛けるのはリスキーなゲームだけど、待ちの一手ばかりでは有利な戦況を形作られてあっというまに追い込まれてしまいがち。
 だからこそ先手を打って出る。自らリスクを選択する、ということは、数あるリスクの中から有利なリスクを自ずから選択できるということ(ビジネス書っぽい言い回しだな。
 もしかするとコマスターでは、バトルに勝つ公算を立てることよりも、バトルで負けた場合のリスクをコントロールすることの方が重要なのかも。そうでもないかも。

 ともあれコマスターには意外と「自分から仕掛けたバトルで負けてもなんとかなる状況」てのが多かったりする。
 例としては以下。

後ろを他のポケモンで埋めてから殴る。

 基本。可能なら、後ろのコマが相手に有利とれるようなコマだとなおいいっスね。
 特に、お互いコマを出し合っている序盤だとやりやすい。

MP2やMP1とかの、動かれてもまだ大丈夫そうなやつを殴る。

 負けた後の盤面の動きを考えてみて、大丈夫そうなやつを殴る。
 エントリーポイントからもう一匹出すのが間に合う、正面は他ポケモンが塞いでくれてるんで大丈夫……などなど。
 気をつけてみているとそういうシーンは少なくないはず。


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 まあ、あくまでリカバリが間に合うというだけであって、負ける度に不利な状況に傾いてってるのには違いないんだけど。


MP3はMP3というだけでそこそこ強い。MP1はMP1というだけで相当なハンデ。

 先に書いた、「動かれても大丈夫そうなやつを殴る」だけど、一転して相手がMP3だと大丈夫なシーンが少なくなり、むしろ即死する危険性さえ増してくるリスキーな相手になる。
 MP3という移動力はそれだけでこのゲームの切り札になる強さ……とはいえそれだけにルーレットでの出目にミスが目立ったり、白技の威力が控えめだったりと、反撃で相手を倒しづらい性能になっているのもまた事実。
 そのへんはゲームバランスとしての兼ね合いでしょうな。

 一方でMP1。MP3の利点と欠点をひっくり返したようなものだけど、それに加えて、いざというときに通せんぼしづらい……という勝敗に直結する弱点も。
 デッキにMP1を入れるときは相応の工夫と戦略がなければ、ただ足をひっぱるばっかりなのは意識しておくべきでしょう。

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白技使いの本当の強さ。

 プラスパワー等の効果を確実に発揮できるので、これを使用すれば同じく白技偏重のポケモンにかなり高い確率で勝てる。
 と、一言で言える強さを持ってます。シンプル。

 ここで大事なのが、プレートは一部例外をのぞき、攻撃を仕掛ける側にしか使えないということ。
 つまり、高い確率で勝てる、という状況は、先に攻撃を仕掛けた側にしか与えられない

 ついでに状態異常になった相手をより確実に退治できるのもアタッカータイプのポケモンやね。
 紫技に弱く、はがゆい思いを味わうことの多いのが白技ポケモンだけど、盤上から敵を排除できるという点ではやはりこのゲームの主役たりえる存在。
 まあ同じことができる紫技もちらほらあるけどー。


オニスズメどうすんのよ。

 公式。
www.youtube.com




 とか色々ー。細かく書いていくとキリないので結局は習うよりなれろですかねー。
 それでは、ダブルチャンスのコストが2になってくんねえかなとお空に祈りを捧げつつ、さようなら。