天塵にもやもやしてこそプロデューサーなんじゃないのかしらとか。
If I couldn't ever be MOYAMOYA, I wouldn't deserve to be producer.
文法あってるかどうかは知らんとして。
ストーリーへの入り口は人それぞれあっていいと思うので、あんまこういう物言いは好きじゃないんだけども。敢えて言えば。天塵を読む前に履修しとくべきテキストは市川雛菜のWINGシナリオではあるまいか。
そんで、雛菜が『雛菜は、しあわせ~ってことだけでいいの』と語る度に。彼女が『しあわせ~』と口にする度に重なるようにつもっていく、言い知れない不安のような感情を先に知っておいた方が。
天塵で。
もっともやもや出来ていいんじゃないかと思う。
そんでたぶんそのもやもやは、もやもやを感じたこと自体が、もしくはそのもやもやとどう向き合ったかが、ノクチルとの、シャニマスとの、或いはアイマス全般との、或いはもっと多くのコンテンツとの関わり方にまで影響を及ぼすもやもやだ。
大袈裟に言うとだけど。
回りくどいけども、ここまで言ったからには天塵のシナリオに触れる前に市川雛菜のWING編に関し語っといた方がいい気がする。
透先輩がいるから。なんだかアイドルってしあわせそうだから。という理由だけで283プロへやってきた雛菜は、冒頭早速「でも、アイドルは楽しいことだけじゃないよ」とPに諭される。雛菜はそれに答えて「じゃあ雛菜は楽しいこと担当がいい!」と微笑む。
面接という場で、Pと雛菜の初対面で交わされたこのやりとりが、市川雛菜のWINGシナリオのほぼ全てである。
しあわせ~なことだけでいい。
そう宣言したとおり、雛菜は苦労もなく特別な努力もせずWING予選をパスしていく。試練も困難も懊悩もなく、しあわせ~な状態を維持したまま。その姿にプロデューサーは戸惑い、その困惑をこぼしたらば逆に雛菜自身から「え~? 結果が出てるんだから大丈夫なんじゃない?」なんて諭される。
こうした態度は雛菜のみに特有なものではない、といえばない。
WINGの二次試験くらいまでなら、合格したところで「あ。合格したんだ」程度の反応で流すアイドルはそこそこいる。
けれど。
ライバルも強大になり、また今までにない数のファンから声援を受けるシーズン3や4ともなれば、そうしたアイドル達もアイドルとしての自覚・目的・気負い・等を見出し、自身の様々なモノを賭してステージに立つようになる。
雛菜にはそれが訪れない。
WINGに優勝した瞬間でさえ、「プロデューサーが喜んでくれるなら、それが嬉しい」という形で喜びを受け取る。優勝時のコミュ名が『Make you happy』と、そのものの名前が付けられているとおりに。
……とまでいうと、だいぶ過言なんだけど。
もちろん、WING編でも雛菜は雛菜なりの目的と自覚を手に入れる。「アイドルとは、アイドル自身の幸せそうな姿でもってファンを幸せにする存在」という知識から、熱心に自分のことを考えてくれているPの姿から、「プロデューサーは一番最初のファンだから、プロデューサーを幸せに出来ていれば立派なアイドルなんだ」と気付き、「今のしあわせだけじゃなくて、もっとしあわせになるには、今のままじゃいけないこともあるらしい」とも気付く。
ただそれもシーズン4という最終盤のコミュのなかであって、WINGという物語のなかでは、彼女が汗を流したり涙を流したりするシーンは描かれない。
シーズン4にて彼女がやっと口にする「ねえ。雛菜って、今からでもアイドルになれるかな?」という呟きからプロデューサーが感じた安堵は。
その安堵が証明するそこに確かにあった不安は。
そんで、モニタの前にいるプロデューサーであるとこのプレイヤーもきっと同じく感じていた不安の、もやもやの正体はなんなんだろう。
なぜ、苦労を知らず、朗らかにしあわせにしている彼女からそんなものを感じなければならないのだろう。
一つには、彼女のいう「しあわせ~」に具体例がないからじゃないか。
市川雛菜は何度も「しあわせ~」を口にする。が、彼女にとっての幸せがなんなのかを言及することがない。しあわせであることを行動基準の優先順位の最上位に置いて――それへの執着とはあまりに裏腹に具体性がない。
だから、雛菜を幸せにしてやりたいPも、どうすれば彼女が幸せなのか掴みきれず戸惑う。
雛菜が幸せそうに楽しそうに朗らかにしている様子に心癒やされるファンはきっと多く、彼女のファンの大半は実際にそういう存在なのだろう。
いうなれば、雛菜は現時点で幸せなのであって。そこに余計な何かを加える必要なんてあるのだろうか。
ただ。
結局のところ、彼女のいう「しあわせ」とは、ただ「不幸でない状態」というだけのものなんじゃないのか。
消極的といえば消極的で。
現状維持を望み、立ち止まったままそこから動こうとしていない。
だからどこか空虚に感じてしまい、それが不安を呼ぶのではないか。
ならば、目的地を示してやることがプロデューサーとしての仕事なのだろうか。
けれど、それは……エゴだとか、押しつけだとかいうモノじゃないのか……?
市川雛菜はそれを見抜いて、やわらかく、刺しにくる。
それは本当にあるべきものなのかと。
「楽しくなくても無理して頑張ってやりなさい~ってこと~?
……辛くて大変じゃないと、頑張ったことにならないの~?」
市川雛菜のがんばっている姿がみえないから。市川雛菜の目的意識がみえないから。
だから不安を感じていたのだとするならば。
プロデューサーは。プレイヤーは。
市川雛菜が努力し、涙し、苦労している姿を見たがっていたのではないか。
それが示されないから不安に感じていたのではないか。
アイドルという物語には、アイドルが悩み、衝突し、苦しみ、血を滲ませている、そんな姿があって然るべきだと。それがなければアイドルとして成立し得ないとどこか思い込んでいる節があるんじゃないのか。
市川雛菜の先の言葉を換言するならば
「プロデューサーは私が苦労している姿をみたいの?」
ということだ。
シャニマスの描くアイドルという物語を褒めそやし、ときに涙する我々は、この問いにどれだけの誠実さでもって回答できるだろう。
私の知らない時代の話をふんわり知識でするけれど。
アイドルってのは昔はうんこをしなかったらしい。
世俗というものから切り離されて、夢や理想を体現した存在で。美しく愛らしく清らかで、人々の理想をステージ上にきらぎらしく顕現させる乙女であって。
世俗の汚泥や穢らわしさとは無縁で、彼女をみている間は現実というものを忘れさせてくれるファンタジーで殿上の住人。
要するに、しあわせ~に恋と愛に生きていた処女。
無論、そんなのはまやかしである。
だけど、その幻想を、アイドルとファンとが信じあい、共有し、ステージに夢をみていた。
そんな時代があったらしい。
だからアイドルはトイレにいかないのだ。もとい、いかなかったのだ。
そう信じられてたのはもう昔の話だそうで。
理想よりも現実をみることが求められるようになった世相だとか、オーディション番組の台頭だとか、まあ諸々色んなものが混ざり合って、アイドルというコンテンツは『がんばる姿と、それを応援することそのものがエンターテイメント』みたいな娯楽として今日にある。
たしか秋本なにがしさんが言ってたと思うんだけどソースが見付からなくてさ。是非は問わないものとする。
私はシャニマスをしょっちゅうパワプロに例えるんだけど。パワフルプロ野球。
実際、レッスンを重ねオーディションで選ばれ続け優勝を目指すのと、練習の日々を送り地方予選を勝ち抜き甲子園という夢の舞台を目指すのとは構造的に似通う部分は多い。
高校野球を指して『感動ポルノ』って揶揄するひとがいる。それはまあ、否定しきれないところだ。甲子園という舞台の価値を強く信じ共有し、人生の一時をそれだけの為に費やす。
それが叶えられる瞬間、もしくは、それが絶たれた瞬間を見物する。
恐ろしく贅沢な娯楽だ。
現実的なしがらみは色々あるけれど、それでも、甲子園に臨む彼らは、高校野球というモノの価値を果てしなく強く信じている。その信仰心に余人がどうのこうのいったところで野暮なだけだ。
だから改めて。
市川雛菜に。
天塵に。もやもやを感じたプロデューサーは、少しでもそれを覚えたならば改めて自らに問い直さなければならない。
アイドルというものはそんなにも多くを賭すだけの価値があるモノなのかと。
で。さて。
天塵って言葉は多分存在しない。おシャニさんの造語だと思うんだけど。
天の塵てのは様々な大気現象を生む要因である。
天に塵が満ちているときに太陽光の入射角がいい具合になればそれは夕焼けや朝焼けになる。
雨上がりの湿気を塵が媒介することで太陽光がプリズムにばらけ虹になって、雲の中にいれば雪の核になる。
ついでにいえば、塵が天に舞いやすいのは夏だ。大気が暖まりがちで空に浮いていくからね。
だから天塵は夏の話であって、光がなければ透明なままのノクチルのお話なのだろうし……そういえば、ノクチルの初顔出しであるおまけシナリオにて、彼女たちは霧吹きで虹を作ろうとしてた。
エモいね。
ハイ。ここからやっと天塵の感想です。
天塵シナリオは、要約すれば「アイドルであるか幼なじみであるか、選択を迫られた」あたりになるよなてのは多くのPが同意してくれるものと思う。イベント報酬である樋口円香のsSSR、【游魚】とはそのまんま遊ぶ魚のことだけど、游漁と書くと、賃金や生活のためでなくただ愉しみの為に行う釣りを意味する。要するにプロでないってことだ。
シンプルなお話であれ、最初のお話に相応しく、四人がそれぞれ四人なりの立場と見せ場でもってお話を通過していく。ので。四人それぞれの立場の個人的な感想を書けば自然と天塵のシナリオの感想としてまとまると思う。
回りくどく話を進めます。
・福丸小糸
癒やし枠。
それはもう色んな意味で癒やし枠。
彼女はとても普通の少女で、その執着も努力も理解がしやすい。
普通の少女なので、彼女自身の努力で報われる範囲でしか悩まないし、その悩みは努力で必ず報われる。要するにもやもやしなくていいのでほんとに癒やされる。
思えば、天塵において彼女たちは「幼なじみであるか、アイドルであるか」という選択を迫られた。けれど、それよりも先に、福丸小糸は既に「進学校か、幼なじみか」という天秤から幼なじみを選んでいるのがWINGシナリオにて示唆されている。
幼なじみという関係に分かりやすく固執し執着している。
幼なじみに追いつこうと懸命に努力し、追いかけている。
けれど……追いつこうとしているその「幼なじみ」という目的地は「現在地」である。円香も雛菜も、形は違えども現状維持に意識を割いているからだ。
だから、そこを目指す限り、小糸は常に三人に追いつけないままになる陽炎か何かのような目的地であって。
幼なじみという関係は、小糸が信じるほど確かなものではない。
天塵によって明かされてしまったその事実は、小糸自身は気が付いていない。疑ってさえいない。そこが怖い。
それでも彼女は、「理想を描き、それに近付く努力」という方法論を他三人に先んじて身につけ、それをそれなりに達成してみせた。だから、アイドルに最も近く、先に進めているのが小糸ということになる。
・樋口円香
静かに静かに、深く執着を抱いている少女。
何にかというと、幼なじみという関係に。それ以外の何かを動機にすることがあるんだろうかという低温で静謐な情熱で。
浅倉透に対する執着なのか、それとも、幼なじみという関係は浅倉透を中心に繋がっていると知っているからこそ透に執着するのかは今のところ断定が難しい。
熱量とは分子の運動であり、変化とは熱を及ぼされるということだ。
だから浅倉透に熱を伝えたプロデューサーという暑苦しい存在を敵視し、嫌悪し、見張り、それによってもたらされる変化から遠ざかろうと試みる。その変化は、今まで変わらずにいられたものを変えてしまう変化だからだ。
ただ。変化を拒み、維持に腐心している彼女は、逆説的に四人組の中で唯一、幼なじみという繋がりがきっといつかほどけてしまうものなのだと気が付いているのだと思う。
天塵というシナリオの中で、プロデューサーはノクチルが持つ輝きのその名前を見出せなかったけど、樋口円香はもう知っているのではないか。
四人の関係を思う彼女の視点は、ノクチルという四人を思うプロデューサーと重なり合っている。よって、きっと、ノクチルという物語は樋口円香を通じて語られていくことになるよな予感がしている。
まるでノクチルのマネージャーか何かのように、幼なじみを守るために出演する番組を調べ、改めて「みんなに何かあったら許しませんので」とPを威嚇する。
アイドルとしての名声や初仕事なんかよりも皆が不快な思いをしないことを第一にする。このときの彼女に「アイドルであるか、幼なじみであるか」なんぞという迂闊な問いかけをしたらどんな辛辣な言葉が返ってくるか、想像するだけでぞくぞくしますネー。
それでも。その初仕事が招いた結果は。
浅倉透は鮮やかに幼なじみを選んだ。
浅倉は樋口円香がきっと最も大切にしているものと同じモノを選んだのだ。そのはずなのに、円香はあまり喜んでいるようにみえないのは気のせいだったろうか。
浅倉が走り出したことをみとめ、福丸がいちばんアイドルだったと褒めて。
いつかとおるが出任せで言った「うみ」に、今度は出任せでなく、行こうという意思でもって辿り着いたことを悟る。
ノクチルのなかにいる円香は比較的穏やかな。それでもどこか諦観を帯びている観測者だ。ほんま円香さんPにだけアタリがごっつい。
ただ……観測者としての立ち位置はそれだけ対象から距離を取っているということでもあって。アイドルとしても、幼なじみとしても、少しだけ距離が空いたシナリオであったようも感じてしまう。
彼女は物語の終盤、「透にできて、私に出来ないことなんてないから」と呟く。少し唐突に感じたこの言葉から、彼女が陰で努力をする理由が察せる気がする。樋口円香は、浅倉透の隣に居続ける為に。もしかするとそのためだけに努力をし続けている。
・市川雛菜
今回のシナリオで、市川雛菜がなぜ浅倉透に懸想するかの正体が少しみえたように思う。
浅倉透はいつも、耳障りのいい、しあわせ~なことを言ってくれるからだ。たぶん。
穿った物言いなのは承知でいうけど、浅倉透は無自覚で無責任なところがある。
何事に対しても執着というものをみせない彼女は、未来というものにも、短期的にも長期的にもさしたる興味がないのではないか。だから割と無責任なことをいう。
皆をよろこばせる為だけに。
天塵冒頭のやりとりが如何にも象徴的だ。おぼんでしばらくみんなと離ればなれになる。みんなが悲しむ。だから皆をよろこばせるために、みんなで旅に出ようと口にする。うちらの車を買おう。みんなでうみにいこう。
市川雛菜は、折に触れて、自覚的に「いやなこと」を躱す姿が描かれる。プロデューサーが何か説教めいたことを言おうとすればさらりと身をかわし、小糸ちゃんが何か小言を言おうとしたら笑ってごまかす。たぶん円香はもうそれを知って諦めているのでほとんど何も言おうとしてない。
透は違う。地に足がついてないけれど、現実的でないけれど、透先輩はいつも楽しいことを、雛菜がよろこぶ事を言う。
どこか無責任に。
無論それだけじゃなくて、大体のことに干渉されず笑ってやり過ごす浅倉透は不幸や苦労とは遠い存在でもあって。それ故にしあわせ~なことだけを望む雛菜にとって居心地の良い存在なのだろう。
ただ。なんとも。
怖い関係だ。
具体性がなくただしあわせであればいいと望む女と、
具体性がなく責任もなくただ皆をよろこばせる為だけの空言を言う女である。
雛菜は、他二人と違って、透の断行した初仕事でのやらかしを全肯定している。
この点は記憶しておきたい。
初仕事の後、透と雛菜は歓談し、ネットでの評判を口にする。
「なめるな~とか頑張ってない~とか書かれてるんだって~(中略)
すごいね~
なんで頑張ってないとかわかるんだろう
雛菜は雛菜のことしかわからないけどな~」
世間の評価なぞドコ吹く風。素晴らしい。現代において最も求められる態度である。
ただ、そうやって。幼なじみを守った先輩を称揚し、その庇護を受けたことを喜び確かめ合うような空間に。樋口円香は立ち入ることが出来なかった。
その部屋に入ることが出来なかったのは、浅倉透の行為を肯定も否定もしきれずに迷っていたから、と、判断するのは早計だろうか。
・浅倉透
このひとこわい。
体温のない人。地球生まれの異星人。
何事に対しても執着というものを抱かないので透明にみえる。
「いえーい」というハイタッチも、どうやら一般の人々は喜び合うときにこうするものらしいというテンションでやってる気がするし、時たまぶちかます「4Kなんかじゃおいつかない」的シュールなネタだってきっと当人にとっては大真面目で、大仰なキャッチコピーを「こういうときにはこういうことを言うらしい」と周囲に倣う形での額面通りな受け方をしているのだと私は思っている。
マンションポエムとか聞かせたらだいぶアカン具合。
執着がないから自分の行為が呼び込んだ結果にもほとんど頓着しない。というか結果そのものにさえたぶんさして興味がない。だから透明で、透明だから何物も影響を及ぼせずさざ波さえ立たせず泰然自若としている。
大怪我をしても「あー……これ、下手したら死んだりする?」とか言いそう。
大人物といえば大人物。
とかいうのはだいぶ偏った視点である。
浅倉透にも執着はある。プロデューサーの熱を受けて、感化され、ただ長いという以外の感慨を持てなかった人生に積極性を持ち始めた。
樋口円香の言葉を借りるならもう既に走り出している。
それから、天塵でもう一つの執着も明かされた。
彼女は彼女なりに、幼なじみという関係を居心地良く感じ、相応に大切にしていたのだ。
個人的な体験だけど。
浅倉透は、皆がよろこぶことをひとまず口にする。
その癖がのぞけてから直後、「みたいんだって。友達の絆。簡単じゃん」と語った瞬間の――スリリングなことったらなかったね。みてきた通り、彼女たちは浅倉透を中心に結びついている。それなのに浅倉透自身が、いつもの執着のなさを幼なじみに対してさえ向けているとしたら。それはもう。
結果としては、果たして、四人組であることを、幼なじみであること蔑ろにした連中へ強烈な切り返しを見舞ってみせた。
安堵したといえば安堵した。
彼女も幼なじみを大切に思い守るべきものとして感じている部分があるのだと。
ただそれで逆に合点がいったのは、浅倉透のあの、みなを喜ばせる為だけに口にする空言癖は、生来の執着のなさと、みなと共にいることに居心地の良さを感じていることとの合わせ技であったのだと。
難儀なことだと思う。
「財布ないわ」で笑えたあの頃がちょっと懐かしくさえ感じられる。
未来に対し責任感のない女が、それでも先に進むことへ意欲を得て、幼なじみ四人を載っけた車のハンドルを握っているのだ。恐るべきことに彼女以外の誰も運転席に座るつもりはないみたいだし。しかもそいつはいざとなれば涼しい顔で交通ルールを破ってくる。
樋口円香さんの「どこにいくんだろう。私たち」が別の意味でもって切実に響いてくるぜ。
重ねて、難儀なことだと思う。
多くの物事に執着を持たない少女が、それ故に静かに自然に放埒である個性が、それでも優先するものがあったのだ。
プロデューサー氏が名前を見付けられなかった「あの本番が、輝いてたって感じる気持ちのこと」の正体を、私もいまいち言葉にし切れないでいる。
大切なものを犠牲にしない態度。出来合いのルールに己を曲げない姿勢。完成品に至る前の可能性。いっそロックンロール。諸々諸々。
この先何度も繰り返すことになるような気がする個人的感慨だけど。
おシャニさんのシナリオの偉いところは、『アイドルとは何か』という問いかけを決して忘れないところだと思う。
我々はアイドルという物語を信奉している。その頂点に立つべく各々の道筋をたどる人々のお話を追いかけている。アイドルマスターというゲームの雛形だからね。
しかし、浅倉透を中心とした四人組は、我々の前に大きなアンチテーゼを、もやもやという形で切り返してくる。
努力は必要なのか。苦労はしなければならないのか。
時に悩み、涙することは本当に意味があるのか。
アイドルとは、この幼なじみという関係を引き換えにするだけの価値があるものなのか。
少なくとも、天塵において。浅倉透はそれへの回答の代わりに厳然と、軽やかに幼なじみを選択した。
これが、これに、もやもやせずいられるだろうか。
多分我々は、ノクチルを透かし、とても根っこの部分を改めて問われている。
アイドルとは何か。アイドルを志す意味とは何であるか。
思えば、WING編のシナリオにおいて彼女ら四人は、優勝を経ることで、アイドルであることの意義に対し、やっとスタートラインに立てたように語られているようにも感じる。
物語として、プロデューサーが負うべき責任は、アイドルにはそれだけの価値があると彼女達に伝えることかも知れない。それでもひとまず、今回のお話では氏は四人に選択を任せた。
アイドルを続けるか。それよりも大事なモノを守るか。
その舵取りを委ねられた浅倉は、いつかと同じく「海にいこう」と語る。いつかとは違って、明確な意思でもって。
花火ってー文化の美しさは、一瞬で咲いて一瞬で散る、その瞬間にしかない美しさであると。多くの人が知ったような感じで語る。
その、ひとときでしかない栄華をアイドルのそれと重ねるのは露悪的過ぎるだろうか。
一瞬というほどの短い時間ではないけれど、幼なじみという関係もきっといつかなくなってしまう、その時にしかないものだ。
彼女たちが今選んだその美しさには彼女たちと、プロデューサーにしか気付けていないものらしく、その場にいた多くの人々は花火を眺め、彼女たちに背を向けている。
うん。
もやもやする。
あ。あと游魚樋口円香コミュについて触れたい気がするんだけど徹底して樋口円香ほんま樋口円香なキミという感じなのでさすがに割愛します。
さらりと「別に自分は自主練してたわけじゃないよ」と口止めにかかる樋口円香。勝算のない賭けに興じる樋口円香。でもその分の悪い賭けも小糸を庇ってこその樋口円香。一緒に貯金箱買いにいくべく提案も小糸の負担を軽減するためっぽい樋口円香……。
あ! 今気が付いたけど、今回書いてることのほとんど樋口円香がもう先に言ってた!!(オチ。