黛冬優子から空かし見るシャイニーカラーズの愛みたいな話。
アイドルマスターシャイニーカラーズの新規参入アイドルの黛冬優子さんのプロデュースをWING優勝までプレイしたメモですよと。
先に、久々のプレイを通じた後の雑感を書いておきますと。
おシャニさんのキャラクターて構造が多層的よねと今回改めて感じました。
キャラクターそのものは割と記号的というか、いわゆるオタク用語であるところの「属性」として一言でまとめられるんだけど、そのアイドルが、なぜ、その属性、に、行き着いたか、が、順序立てて設定されており、育成を通じてその層が一枚ずつ露わになってそれがドラマになる。
例えばー。風野灯織さん。
彼女を例にとってみれば、一見はストイックな努力家。
一言目には「レッスンお願いします」
二言目には「わかりました。努力します」
三言目には「次はもっとうまくやってみせます」
そんで、理想の高い人格故に進歩を怠り気味の他者には攻撃的……かと思いきや、育成のさなかにつぶさにみれば、その攻撃の矛先は他者というよりも……なんだか、自分自身にばかり向けられてないか……? という傾向に気が付きます。
ああ、そうか。
この子は理想が高いんじゃない。
自分自身の評価がどうしようもなく低いんだ。
そうなってしまった原因はわからないけど、どうしようもない劣等感が人格の真ん中に巣くっている。
だから、他者との接触に臆病になるし、ウカツに褒めるとむしろ拒絶反応を示すし、自分に自信がないから占いにすがったりするし、あとお前それ大丈夫かよという勢いで指導者(プロデューサー)の言いなりになる。
彼女にとっては、レッスンさえ逃避の手段なんだ。
じゃあ。どうすればこの子は救われるんだろう。
その困惑も、その困惑があったからこそ WING での優勝という一つの夢を達成したあと彼女がみずから望んだご褒美が「今から、レッスンに付き合ってください」であることに、こう、胸をつかれるといいますかね……。
筆が滑った。
黛冬優子さんの話だった。
まあそんな感じで多層的なんですよ。
恋鐘たんも、自信過剰な自称天才にみせかけて「子供のころから周囲に『こがねはかわいいねえ』『将来アイドルになれるねえ』と言われて育てられたのを完全完璧に真に受けたまんまここまで育ちました!」とかいうスゲエ人格だし。三峰もだね……。
キリがない。
言い始めたらキリが無い。
だからまあ、多層的なんスよ。
多層的もなんも本来からしてキャラクターの造型なんてそんなもんじゃない? て声もあろうかと存じますが、この、多層的で、一枚一枚剥がしていくことでキャラクターの理解が深まるという構造がそもそもの『アイドルマスター』て育成ゲームにやたら相性がいいわけですね。
ああこの子はこういう娘なんだ。という理解。要するにプロデュースしている感。相互理解。まさしく育成ゲー。
デレステあたりは逆にフラットなところから始まって一層一層積み重なってく感じよね。それはそれで利点も多かろうものと思いますが。
ハイ。
黛さんの話もちゃんとしておこう。
黛さんの場合もまあ、キャッチーないわゆる属性付きよね。腹黒二面性キャラ。だいぶがっつりした、目には見えなくて餌の要らない猫を飼ってる娘さんです。
正直をいえばプロデュース初回あたりはハフーンそうねこんな感じなんねという反応で済ましてしまいそうになった。
シーズン2(16週間経過時点)でもうボロが出るんですかー思ったより早いなーみたいなー。
しかしそれも先に行ったとおり、多層的なキャラクター構造の一番外の部分なわけよね。
ストーリーが進むと、彼女は本当の自分がないと詰られることになる。
表に出せるモノは作り物の笑顔だけ。しかし本当の自分を出しては幻滅されると恐れる。
その自縄自縛のなかで、それでもアイドルとして仕事を続けているうちに、自分の中に見出すことのできた「何か」を頼りに、彼女はアイドルを続けることを選択する。
そうしたストーリーラインをなぞりつつ、ひとまずWING準決勝三連敗まで遊んだ最中に、一番気に掛かったのはこちらの台詞でした。
不思議なくらい、自負心が強い。自負心という言葉であっているだろうか。
強烈な表現だと思う。
猫をかぶり愛嬌をばらまくことは八方円満に納める為の方便としても機能するはずで、それはそれで美徳でもあるんじゃないのか。それを「背負わないようにしてた」とは。
衝突を避けることは、一概には逃避とは呼べないだろう。
しかし彼女自身はそれを怠惰か、もしくは怯懦による選択だったと申告したのだ。
それは、自分に関連することは全て自分に責任があると宣言しているような……或いは、自分さえ上手に振る舞うことが出来たらならほとんどの問題を解決できるはずと語るような。謙虚さとは逆の強烈なエゴも感じさせる言葉のように感じた。
言い換えれば、自尊心だ。
事実、アイドルとして確かな手応えを得て文字通りの勝ちどきをあげている彼女に「楽しそうだな」と声を掛けると、返ってくる言葉は関係者全員を「いい感じ」に出来たことが誇らしいという喜びだった。
「もっちろん!
だって、今のふゆって最高じゃない?
スタッフが気に入るカンジで振る舞って
仕事もうまいことこなして……
そしたら、
アイドルの仕事がもっと来るようになるわけでしょ?
むしろみんながやる気になって
よりふゆが輝くってものよ!」
ここまで多層的という言葉でシャニマスのアイドル達の、キャラクターとしての厚みを表現してきた。
それは、その人格が「テンプレ」だけではなく、「なぜそのテンプレ(のようにもみえる)人格に至ったか」がその物語に内包され、折りたたまれているよう感じさせるからの表現である。
なぜその人格に至ったか。換言すれば、それはアイドルが持つ「過去」である。
黛さんで言うならば、自分をさらけ出すことを恐れるに至った経緯だろう。
ならば、猫を被りがちという表層部分は現在ということになりましょうか。
黛冬優子は、過去と現在とを経て、被った猫をも武器として、ある種のプロフェッショナリズムにより「ファンも、スタッフも、審査員も、プロデューサーも、自分自身も、関わる全ての人々を笑顔にする」と宣言する。
「あと、一個間違ってるから
ふゆは絶対泣かない。優勝を掲げて大笑いしてやんの
……何があっても……あんたは笑って出迎えて」
この直後に、猫かぶりの「行ってきます! プロデューサーさんっ!」と宣言するのがなんとも象徴的だ。
おじさん(おれ)の好きな愛の定義の一つに「他者へ興味を持ち、自己との違いを認識し、尊重する」というものがある。
多層的なキャラクターを一枚一枚理解していくことがそのままゲームとして、プロデュースしていくことにも繋がるとは先に言ったけれど、それは、アイドルという人格の過去と現在と未来とを肯定するということだ。
それが愛でなくてなんだろう。
そう。ここで思い出して欲しいのはあのポーズである。アレだよ。アレ。
輝かせよう、アイドルの全て。
その人物の、過去と現在と未来を肯定すること。
それこそまさに『輝かせよう、アイドルの全て』という惹句の意味するところではないだろうか。
アイドルマスターシャイニーカラーズ。なんと優しいゲームだろうか。
あとは細かく撮ったスクリーンショットでメモ代わりの呟きでも列挙していこうかと思ったけどそれはまあもういいや。
買い物袋にDVDだのグッズだの詰め込んでいるのをみて「奈緒ー! お仲間ー! ここにお仲間がいるぞ隠れオタのォー!」とか叫びたくなったり、あんたも少しは頑張ったみたいだし、ご褒美あげようかなって。て宣言する直後にマスク外すもんだから「え? その使用済みマスクくれるの?」て思ったりとか。あと放置時のプロデューサー? いないんですか……? ……はぁー。 の、「……はぁー」の部分が好きだったりとかそのへんです。
はよ。ユニットも追加シナリオもTrueENDも、はよ。