シンゴジラの感想話。

 戦後という言葉を実感できた例しがない。
 いわゆる文豪と呼ばれていた人々の創作物にはそうした区分で呼ばれるものも結構多い。とはいえ、紙の上でそれの生み出された文化背景を察してみようと試みるも戦前戦後も近代も等しく「今より昔」という感触ばかりが残る。
 夏目漱石三島由紀夫も同じような箱に入っている。
 それでは。とはいえ。
 震災以後という言葉もまた実感には遠い。
 2016年の8月からみた2011年の3月は、それこそ戦後と呼ばれた価値観よりかはずっと近いはずなのだけど、元より社会に定着できていない私のごとく生ニートにとっては、震災の起きる前と後でどのくらい変わったのかを説明し体感会得できるほどの経験がそんなにない。

 それに、実際に被害に遭われた人々。
 あるいは帰宅難民となって夜中を歩いた人々。
 そうした人々を目にすれば、西日本の片隅で「コンビニに商品が補充されねーなー」程度の体験しか持たない私にはあの震災に対しなにがしか口を挟むことに強烈な負い目がある。たいへんおこがましくすぎる。

 そんなだから私がシンゴジラに関し何かを語るのはそもそもが悪スジなのである。
 ゴジラの過去作をまともにみた覚えはなく、特撮に関してもこれといった思い入れがない。

 しかし。「体感」はどこまでも正直だった。
 今でこそ「もはや他人事」というツラをしているあの震災だけれど、起きてから数日、数週間、もしかすると数ヶ月。
 眠るとき以外のあらゆる時間をモニタの前に張り付いて過ごし、貼り付けなければケータイをいじり続け、特例処置によりネットで放映される様々な報道局の報道映像を開けるだけ複窓に開き、その片隅でついったのTLを放流し、被害者数、福島原発、生み出されるデマ、救助の様子、美談、醜聞をめだまから注入し続けていた。
 完璧な情報中毒だった。震災に関する報道に触れていなければ不安定で、文字通りの震えていた。自分の日常を忘却していた。
 いつ頃かは思い出せないけれど、ああおれは明らかにおかしくなっていると気がつき、他人事は他人事であると線を引いて、意図的に情報をもぎ離すことで、世間の大多数と同じ頃合いに私も日常に戻れた。

 あのときは真剣に思いかねていたのだ。
 この日本はどうなるのだろうと。あるいは、日本が終わるのかも知れないと。

 あからさまにあのときを引き写し、引用する演出によって、なんとかして忘れようとしていたあの体験が引きずり出された。
 とてもよくない目眩を感じた。
 震災という日本人全体に降りかかった経験をあからさまに用いるそれは、言ってしまえば露悪的ではある。けれど、しかし、現実として、傾国の危機を現存する多くの日本人が体験して以後に、それを用いなければ何もかもがぼろぼろの嘘になってしまう。
 描かれる放射線量のグラフ。つなぎを着た首相による記者会見。L字で区切られ続ける報道。放射能汚染の危機。使い物にならないと叫ばれる災害対策マニュアル。
 自粛とよばれる臭いもの蓋が大好きな世間のなかで、よくもこんな演出を選択できたものだとも思ったけれど、改めて思えば、他に方法はなかったのかも知れない。
 現実に、日本が滅ぶかも知れないという危機感の味を知った我々にとって、虚構のゴジラがどれほどの恐怖になるというのか。
 ああ。そうか。これが「震災以後か」と思い知らされた。

 だからこそシンゴジラは、創作に許されるかどうかわからない線で、執念のような説得力で、地道に順当に、丁寧に周到に、いっそ理性的に、一つ一つ説明しながらも異様な速やかさで都心を滅ぼしにかかる。
 真綿で首を絞めるなんて表現がある。そんなもんじゃない。つま先の骨を潰したところから初め、くるぶしを壊し、脛を折り、膝を割り、太ももをかじり、腰を砕くような、破壊力を伴う周到さと丁寧さ。

 有り体に言えば、怖かった。

 そういえば、ギレルモ・デル・トロ監督がパシフィックリムのオーディオコメンタリーで言っていた。
「何歳であろうと童心に帰って怪獣やロボットの存在を信じてみてほしい。そうすれば制作中の僕のように、11歳の少年の心で本作を楽しめるだろう」
 こーれーがーそーれーかー。という気分だ。

 その威力をともなう説得力が、その末に熱核兵器の使用にたどり着く。
 それまで「はいはい大国意識大国意識どうせ日本は属国ですよ」とうんざり顔の無抵抗でアメリカの要求を処理し続けていたお役人さんが「この国にまた核を落とすというのか!!」と激昂し、お役所特有の煩雑さも根回しも涼しい顔でこなす辣腕政治家が作中ほぼ唯一「それが……国連の要請ですか……」と声と視線を振るわせて狼狽する。
 そして「世界規模の災害をとめるため身を挺して熱核兵器の使用を許可した。そう演出し、各国の同情と国際援助を求めるしかない。それが日本という国が生き延びる唯一の方法だ」と、視聴者にさえ、原爆の使用をあきらめさせる。

 これほどまでに、作戦の成功を祈らされた創作作品があったろうか。

 日本らしい映画だよなあとあっさり言える。
 世界に誇る技術立国日本ーだとか礼儀正しくオクユカシイ日本の美徳ーだとかそうしたナショナリズムにはちょっと身構えてしまうところではあるけれど、そもそもこの映画が日本だとか、或いは国体を為す存在そのものを題材とした作品なのだから、日本だからこそという感想は仕方のないところだ。
 1分遅れただけで非難囂々の正確さで日々勤め人をぎゅうぎゅうに圧縮し会社へ送り届ける鉄道での爆撃も、重機による薬品の直接注入といういっそ地味な最終手段も、ひたすら頭をさげて非論理的な情に訴えるしかなく責任をとる以外の役目を負えない重役も、だいたいが「まあ日本だしね」と諦観を持って受け入れている現実だ。
 それらがことごとく切り札になるというあたりは率直なエンタテイメントであるし、この映画がメイドインジャパンであることをごっそりと印象づけられる。

 ポスターにのっけられたキャッチコピーがどれくらい監督の意向を汲んだものなのかはわからない。
 けれど、現実vs虚構と書いて日本vsゴジラと読ませるそれは様々に含意があるように感じる。
 作品そのものがゴジラに対する日本の総力戦を描いたものであるし。
 震災という大損害をおった現実と、それを経てもなお虚構の亡国の危機で人々を楽しませられるのかという挑戦でもあるし。
 全て見終わった今だと、虚構の日本はこの危機を乗り切って見せた。同じことが現実の日本でも出来るだろうか? という挑発のようにも感じる。
 というか。挑発というのは相応しくない気がする。同じことが出来るに違いない、という監督のラブコールのように感じるのは入れ込みすぎだろうか。

 だとしても、「この国はスクラップ&ビルドで成り立ってきた。今回だって、変わりはないさ」というあの一言が。
 震災からまもなく作成されたシン・ゴジラであり、そして、戦後まもなく作成された最初のゴジラへのメタなオマージュなのだとすれば。
 やはり、この国に向けられたラブレターであるように感じられてしまうのだ。

 そんなだからぼんやりと日本人以外がみたらどういう感想になるんだろうなあーというのは知りたいところである。
 具体的に言えば、ギレルモ監督にみてもらいてえ。それともとっくにもう見終えてるかな。
 エンドロールの最中に、撮影に関わった人間への謝辞とその名前の数々を述べられるだけ述べて、少し尺が余ったのか、だからこそ予定になかったかのように「僕は怪獣のために生きている。ともに彼らを生かそう」と一言漏らした、あの監督がこの作品をどう受け止めたのか。
 知りてえなあ。
 生きてたよ。監督。ゴジラ。ちゃんと生きてたよ。この日本で。