ガルパン劇場版のおおきめの感想。

承前。

 県下で上映してくれる劇場が一つしかなく、加えて交通の便がよろしくない場所だったのでこうなればとチャリンコで向かうこととした。片道二時間。到着して、堪能して、スクリーンから出てトイレの便座に座って少しだけ考えたのちにもう一枚チケットを購入して立て続けにみて、堪能して、どぷんと夜が更けもはや行き交う自動車もない夜陰のなかをそれでも行儀よく路側帯付近を走っていたらば縁石にもののみごとにぶつかって半円を描きながらふっとんで背中から落ちてチャリンコのフレームをゆがめてしまった。
 ハンドルを切ると前輪とペダルの干渉する状態で慎重に帰路につく。結果的に高価な映画鑑賞になってしまったがまあそれはそれとしてガルパン映画おもしろかったんでよかったです。たぶんスチールのフレームだから比較的安価に直せそうだし。直せるんじゃないかな。直せるといいな。不憫なので。チャリンコが。
 時間が許せば三回連続で観てたかもしれません。

 

大きな感想。もしくは『劇場版』がみせてくれたもの。

 観たのは封切りから四週間目になろうかなるまいかーみたいなタイミングかな? 多くの方のネタバレ配慮のおかげでさしたる予備知識を植え付けられないまま鑑賞できた。ただ、みな異口同音につぶやく「ほんとに劇・場・版て感じだった」てのだけはそうしたネタバレ配慮の網から漏れて聞こえ、意識せずともそれを確かめるよな鑑賞になるだろうなと思っていた。

 思っていたけども。


 映像が始まり、紅茶の中の茶柱が浮かぶシーンから。
 ガルパンのなかの数少ない定番ネタ、ダージリンの「こんな格言を知ってる?」がつぶやかれる。
 そうだった。聖グロリアーナは戦車のなかにあっても優雅と自称していた。
 その静かな開幕から「訪問者ならもう来てるじゃないですか……ステキかどうかは知りませんけど」と継がれた言葉を示すように、視点は射座から砲門をくぐり抜け戦車の外観を映し――そこで、おそらくは観覧者全員に「劇場が音響設定まちがえてるんじゃねえの」だの「え。これは大丈夫なやつなの……?」だのに類する反応をさせたに違いない砲音が大・大音量でずどがーんと鳴り響くのだ。

 そりゃもうずどがーんと。

 その大迫力の大音声がこそ『これがガルパン劇・場・版だ!!』というスタッフからの大宣言なのはきっとまちがいがない。
 そして一度鳴ったからには戦場だ。十数両からなる戦車の大砲が同時多発に多重に鳴り響き、戦車をかすめた砲弾が耳障りな擦過音を響かせ、あるいは芝生をうがち土煙を巻き立て、飛び散らかした土石が雨のように時間差で降り注ぐ。
 みなが一様に「劇場版だった」と漏らした感想は開始からものの数秒で証明され叩き込まれた。
 TVシリーズで見慣れた静かなやりとりから始まり、TVシリーズで見せつけられた激しい戦車戦へと直接つなぐ。静と動の落差。それを何よりもまず開幕に持ってくるこのサービス精神。心憎いったらありゃしねえ。


 もちろんその大音量は来場者をびびらせるための出オチではない(そんな出オチは勇壮な『雪の進軍』とともに吶喊するチハたんが見事に負ってくれる)
 劇場版だからこその迫力は音でのみ演出されるのではなく、特に私の心を引いたのはとにかく景気のいい(しかし戦車ごとの重量や砲威力を考慮に入れられたであろう)戦車の吹っ飛びようだった。TVシリーズだと砲弾が命中し、有効打だと認められた戦車は(いくつかの演出的例外はあれども)おおむねその場に擱座し停止することで行動不能と表現していた。それがこの劇場版だと「そろそろ『特殊なカーボンで守られてるから中の人は無事』っていいわけも効かないんじゃないですかねえ……」と心配になるくらいどっかんどっかん吹っ飛んではぶち転がって障害物にめり込んだり天地逆さまにひっくり返ったりしている。その視覚的迫力を担保する聴覚的迫力!


(ただ、ここでいう「搭乗員は無事なの?」という心配はまた別の問題をもつのだけど、それはもうちょっと後で語るとして)

 そしてそれら演出の強化っぷりはただ大迫力にのみ費やされるのではなく、シブい臨場感にも割かれている。目立ってそれだと指摘できるのは着弾による土煙だ。地面に着弾し爆炎をあげ、もうもうとあがる土煙。パラパラと降り注ぐ土石は多くの戦争映画でみられる演出だ。そして射座による視点でその煙の中につっこみ、戦車自身の風圧に押されて視界が晴れて突き抜ける……これもTVシリーズでは決して多用されなかった贅沢な演出だと思う。
 あるいは、市街戦で建築物に打ち込まれたKV-2の砲弾が階層を横にまるごと破壊し建物の向こう側にまで貫通しての大爆発炎上。


 要するに演出効果がとにかくリッチ。劇場版。劇・場・版。
 このへんまるごと映画開始から5分だか10分だかまでの感想だかんね。
 残り110分あるんスよ。


 とにかく演出の迫力や臨場感のための創意工夫に最後まで振り回されるステキな戦車映画劇場版なのだけど、ただ、留意しなければならないのは、たぶんこれはコストを大量に費やしただけの豪華映像ではないのだという点だ。
 おそらくは執念の映像なのだ。
 そもそもの話、耳を聾さんばかりの砲音。弾着による爆炎や土石。衝撃にごろんごろん転がる戦車。それらは、あるいは、戦車戦で最初からあって然るべきものなのかもしれない。
 劇場版だからこそと我々が見せつけられる様々な、あまりにも効果的な演出の数々はきっとTVシリーズでやりのこしたこと」の総ざらえでもあるのだろう。例えば転がる戦車一つをとっても、吹っ飛んで転がれば車底などさらさなければならない角度の増加につながる。ただ書き込みの手間が増えるだけでなく資料面の問題もあるだろう。音響面などまさしくそれで、コメンタリーにて「戦車砲の、花火のような、音で眼球が押されて視界からゆがむような音。あれはTVではまず表現できないでしょうね」と言及されてたりもしていた(それを踏まえてみれば、ああ劇場版だと、何よりもまず我々に思い知らせる演出が砲撃音というのはいかにも象徴的である)
 TVシリーズで出来なかったこと、断念したこと、あるいは劇場版でなければできないこと、それらを払底するべく費やされたこだわりと執念。

 あるいは、おれたちはこれはが描きてえんじゃあーという真っ正直な誠実さ。

 戦車好きの諸兄の心を撃ち貫き、戦車に関してはズブの素人だった私らの知識的ギャップを(無限軌道で!)乗り越えて、皆一様に「なんかスゲエ……!」と感動させ揺り動かしたのは、その執念があったからこそなのだと思う。
 それら様々なディテールへ注ぎ込まれる熱量こそが、ガールズ&パンツァーという作品の本質そのものなのではあるまいか。


 そしてその本質、情熱、執着が、TVシリーズを圧し、まだまだ底知れないものであったと思い知らされる質量でそびえ、劇場という場で直に触れることができた。
 それこそが『劇場版』だからこそみることのできたものなのではなかっただろうか。
 であるがこそ、多くのひとが口にした「劇場版だった……」という感想ははるかに正しいのだ。


あるいはアニメフィクションの挑戦。

 とかで感想第二部。
 劇場版ではっちゃけられた様々な演出を「TVシリーズでやりのこしたこと」ではなかろうかと表現したけど。そう表現した数行後でいきなり否定するのも何だが、たぶんそれだけじゃないんだよね。もちろんコスト面の問題もあったろうけど、TVシリーズではあえて抑えた演出とするよう判断した場面も多かったのではなかろうかと思う。

 先に結論めいたことをいうと、あんまりにも切迫した、いかにも人死にの出そうな演出をしてしまうと、それは戦争に近いものになってしまい、戦車道ではなくなってしまう。ということだ。


 TVシリーズでも砲弾に弾かれすっころぶシーンはあった。特にマウス戦車との交戦が印象的だ。だよね。勝戦での大ボス的に登場したそれのどごーん・どごーん・どごーんという三カットぶち抜きな砲撃で命中もしてないのに風圧で横転させられる大洗チームの戦車……という演出は、まさに「決勝戦だからこそ」「ここぞとばかりに」「解禁された」演出だったのではなかろうか。
 解禁されたその演出は効果絶大で、いやほんと、これまでもさんざんだったけどほんとのほんとにどうすんのこんなもん……という驚愕をふんだんに味あわされた。だがその中でも究極に近いものがあのシーンであり「さすがに死ぬんじゃねえのこれ……」という緊迫感は最終回だからこそ許されるとっておきだったように感じる。


 劇場版のみならずガルパンという作品全体に対しての感想なのだけど「一番最初にでっかい嘘をぶっこむことで後の細かい嘘をカバーしてほんとに描きたいものに集中できた上手な作品」てのがある。


 ここでいう最初にぶっこいたでかい嘘とはもちろん「乙女のたしなみ・戦車道」のことだ。 
 そもそも、現代の戦場では戦車だけでの交戦なんてのは(航空戦力の発達や歩兵だけでも戦車を倒せるロケット砲の開発だとかで)ナンセンスな代物なんで、それを実現するにはフィクションであってもそれなりの設定が必要になる。加えて、ガルパンは戦車とか出てくるのにミリタリー色なドラマ(限られた兵站・死と背中合わせの日常・何が為に戦うのか等々)を限りなく抑えて部活動ライクなスポ根ドラマに終始するという(結果的には英断だったであろう)選択をしている。戦車とか出てくるのに。


 それらの解決が為に吹かれた大ボラが「戦車道」なのだと思う。戦争ではなく、部活動のような武道であり、乙女のたしなみであると。命や国家というあまりにも巨大なものの「奪い合い」ではなく、技術や精神を競い合うものである。
 だから勝ち方にこだわることが出来るし、自らを負かした相手に素直な賞賛を送ることが出来るし、ええええいくらなんでも無茶じゃねー? という戦術を選べるし、さすがにちょっとそれは……というまぬけなミステイクを(選手たちも、視聴者である私らも)笑って許容できる。
 あるいは、長砲身にもぐりこむM3だとか砲塔をもたない突撃砲同士のぶつかりあいだとかの、無邪気とさえ言えるような、荒唐無稽でもあり、各戦車ごとの個性や戦車同士での交戦ならではな魅力を存分に描き出せた。


 それらを担保するとても大事な嘘が「戦車道」なのである。なのだと思う。

 

 戦車道でなくなってしまうとそれら要素のほとんどが「いやいやそんなことしてる場合じゃねえだろう」という茶番へと堕してしまう。それは戦車戦での迫力だけでなく、人間関係でもそうだし、敵対校とのドラマにも同じことが言えるだろう。

 それこそ、賭けるものとしては、母校の存続というパイがほんとに限界一杯ギリギリの大きなものなのではなかろうか。

(余談だけど、だからTVシリーズ勝戦にて黒森峰の追撃を恐れつつも西住どのが八艘飛びでM3を助けに行ったシーンにて、モモちゃんが『はやくしろー……!』と呟いたいけずはとても大事なバランス感覚だったと思う)


 と。さんざん言葉を費やして、何が言いたいかというと「え。これ下手するとマジで命が危ないんじゃね?」という描写は戦車道というフィクションを脅かしかねないとてもきわどい演出だ。ということである。簡単な話、人の命のかかってるような勝負っぽくみえてしまうと、爽やかなスポ根どころの話じゃなくなってしまうってことだ。
 すさまじい轟音でもって放たれた砲弾が戦車という鉄塊を歪め吹き飛ばし、その超重量がごろんごろんブチ転がり建築物に激突し爆発炎上するという演出は、だからこそTVシリーズではなされなかった

 

 しかし、劇場版はそこに踏み込むという決断をしてのけたのである。
 そして、それは戦車道というフィクションを捨てるという選択でもなかった。

 

 むしろ劇場版は(既にご覧の諸兄は思い知っているとおり)その荒唐無稽ささえTVシリーズを超えた劇場版スケールだ。おいおいおいいくらアニメといえどやりすぎじゃねえのおおというシーンが、まさに戦車アトラクションという勢いで法外な迫力、あるいは底抜けてまぬけなシーンの脱力とで立て続けに立て続けにぶちかまされる。
 アニメだからこそ許されるような展開や演出が、ときには戦車道という嘘を補強するために、ときには戦車道という嘘を利用して、劇場版スケールでふんだんに振る舞われる。

 それら演出に踏みこむという決断はただ、描写に大量のコストを費やすという決断だけではない。「どこまでいったら戦車道ではなくなるのか」「どこまで臨場感と迫力のある演出が許されるのか」という思考と決定、バランス調整にもべらぼうなコストを割くという決断も意味していたはずである。たぶん。

 今更言及するまでもない事柄だけど、ガルパンはフィクションだからこそ、それもアニメだというフィクションからこそ為しえた作品である。
 TVシリーズにてアニメーションだからこそ到達しうる境地へと至ったガルパンは、しかし劇場版という「そこからさらに先」への道の前で遂に問われたのだ。アニメだからこそ許される限界はどこなのかと。
 その世界の法則を自在にできるアニメーションなのだから、荒唐無稽に描こうと思えばコロリョフフォンブラウンにタッグを組ませ急速に進化させたV2ロケットでもってⅣ号戦車を宇宙に飛ばすのだってやろうと思えば訳はないはずなのだ(やろうと思えば)
 しかし、リアリティをともなう、フィクションのなかに現実をあらわすべくディテールのこだわりがあったからこそガルパンは異様な熱量をともない我々を感化せしめたのは先に述べた通りである。アニメであるというエクスキューズに頼りすぎて、細部を捨ててしまえばはもはやガルパンではなくなってしまうのだ。


 アニメであることで成立してきたガールズ&パンツァーが、どこまでアニメであり続けるかを問われていると言い換えてもいい(誰に問われたかはまあわかんないけど)。

 そして、劇場版の制作はその問いへの回答の連続だったのではなかろうか。撃ち放たれる砲弾にともなう音はどの程度の迫力か、あがる土煙に降り注ぐ土石まで表現するか否か。どこまで危機感を煽るべきか、どこまでなら危機感を煽ってもいいのか。
 それらの積み重ねは、「こんな戦車アニメなんていままでなかった!」という歓呼への誠実な返答でもあるようにも思えてくる。

 

 個人的に思うところを正直に言えば、今回の劇場版がリアリティとフィクションとのバランスに脱輪した箇所があったようにも感じるのだ。しかし、ガールズ&パンツァー劇場版という作品が真摯な返答の積み重ねであるのならば、それに対し「ここはアニメだとしても正直どうかと思う」「ここはものすごいリアリティがあってかっこよかった」あるいは「これこそが戦車道だよな!」という感想もまた、誠実に抱くべきだと思う。
 だからこそ……だからこそ、えーと。


 すごいだいじなネタバレをするのでもし未見の方がいたらば今すぐ目を閉じて欲しいんだけど。

 閉じたかな?
 閉じたよね? で。

 

 だからこそ、最後の決着のシーン。
 それまでのアトラクションつめあわせのようなエンターテイメントにまみれた戦車戦は、あの最終決戦の緊張感のための布石のようにさえ感じてしまう。笑いさえともなう娯楽から急転直下、それからなるギャップに身構えずにはいられない、抜き身の刀で致命傷だけを狙い切り結ぶような、砲身の角度一つが決着を意味しその行方を追ってしまう。はちきれそうな緊張感で繰り広げられる一対二の戦車戦。そこまでして演出された緊迫感の最後の最後の最後を突き破るあの戦術。


 現実の戦車戦ではあり得るはずのない、あの一撃。


 あれこそが「これが『戦車道だ』」という高らかな宣言のように思え、私の心を打ったのだ。


 西住みほが探し求め、そしてみつけた戦車道という言葉は、ここに至ってメタフィクショナルな意味をも持ち合わせ始めたのだと思う。ガルパンの進む戦車道とは、リアリティと、フィクションと、アニメとの境界を探り、あるいは押し広げていくような、どこまで行けば戦車道ではなくなってしまうのか、戦車道はどこまで行くことができるのかという探求の道なのかも知れない。


 もしかすると未踏でさえあるかもしれないその道を、ガールズ&パンツァーがさらに突き進んでいくところを、可能ならばもっともっと見続けていたい。

 そう願わずにはいられない。


 要するに第二期とか続編とかまーだー? てことであってまさしくパンツァーフォーだ。進め乙女の戦車道。こーれがーわたしのーせーんーしゃーどおー。