ガルパン最終章公開前夜のどうたらこうたら。
文中にもありますが、「ガルパン最終章を観る前の気分はガルパン最終章を観たあとでは味わえないんだよな」という思いつきを元に、視聴前日にはこんな気分だったとメモしておくのも悪くないんじゃないか企画として書いといたものです。
説明しとかんとわかんなさそうなので。寝不足気味のテンションでぶん回すライブ感がなんともアレですね。
こうしてアップロードしている現時点は無論視聴を終えてるわけですが、この観た後で見直すと……いや今は何もいうまい。
ああーのころのぉーぼーくらーはあーーーーーーああああああーーーああーああああああー。
それなりに平静を保っているつもりではあったけれどもいざ前日ともなるとやはりそわそわとしてしまう。ガルパン最終章第一話公開前夜である。
期待10割で不安も10割だ。とにかく大好きなシリーズだけに封切りが楽しみだけどもがっかりしてしまうことも怖い。
好きな作品だから全幅の信頼はあれども、しかし作品に疵がなくともそれを観るのは独りよがりな価値観をもったこのオレなのだどう評価をくだすかわかったもんじゃねえ。
しかも最終章だ。ああ。最終章なのだ。彼女らの未来が、結末が決まってしまうのだ。ああ。
実際に書きもしない二次創作で一人遊びをしているならまだ脳内お花畑で済むけれども、公式で道筋が決められたならそれこそが宿命で不可避で運命だ。未来が決まり可能性が収束し何物でもないそれとして結晶するならばその他の可能性は死滅するのだ。成長とは彫琢だ。 可能性を刻んで削ぎ落としただそれしかない唯一の形へと完成させていく。それが望ましくとも、望ましくなくとも、ただ望ましい形として決実するのだ。揺るがせなく。
ああ。
ええと。
とにかくもはや理屈ではないのだ。
そわそわする。そわそわする。
今のとこ人間には記憶を任意に消す手段はない。観たものは観たもの。多少の可塑性こそあるものの非可逆が大原則である。
つまりガルパン最終章第一話をみる前の私の脳みそとガルパン最終章第一話をみた後の私の脳みそとは決定的に違う。ならば観る前の私の脳みそでしか考えられないことがあるはずなので、せっかくだし、それを書いてみたいと思う。
最終章制作の第一報に触れたときから私の脳みその片隅で自捻自倒しているのは、ああ、ついに角谷杏会長の話がきてしまったという、予感の的中めいた、なるべくして、来たるべくしてきたお話がついに来てしまったのだという、我が意を得たりという、収まるべきものが収まるべきところにホールインワンしたのを眺める満足感であると同時に、そこから起こる無限の円運動である。先にも言ったけどもう色々理屈ではなく文章もなってない。
オタクは作品を語ることとキャラクターを語ることを同一視しがちである。
そんだから、私が創作上の人物の「推し」を見出す大抵のきっかけは疑問だ。疑問がそのまんま興味になる。
なんでこのキャラはここにいるのか。どうしてこんな言動を。来し方行く末。
例えばー、アイドルマスターシンデレラガールズの白坂小梅ちゃんで例えればですね。略。
角谷杏会長が好きなんですよね。
為政者。
ガルパンのキャラで言えばいっとーに好きなのは本当の本当に間違いがない。
なのにも関わらず近年のガルパングッズは各校の隊長シリーズに終始しておりそのために杏会長のグッズが少なめだとはどういうことかね。ほんと不満なんですよ一番くじ。まあおじさんはガルパンのガルの部分もともあれパンの部分は決して蔑ろにしてはならんと思ってるおじさんなんで単に杏会長がボコの着ぐるみを着ただけのグッズがあったとしてもー、あ、カメの着ぐるみきてたのはああああああうおおおー買うかなああーーーあの体型にタイトな着ぐるみがあーあーあーあーなんでおれガルパンのソシャゲ遊んでねえかなああーーーお前そんなこと言っておきながらヘッツァーちゃんも38tも持ってねえじゃねえかあーすいませんポチりますポチりますゥー。
お話の主人公というものを、お話の成立の重要度に求めるならば、ガルパンという物語は角谷杏会長がいなければかなり未成立に終わる。
戦車道が道であるならば行き先が必要だ。
西住みほが言った「見つけたよ。私の戦車道」という言葉をそれに当てはめるなら、彼女は行き先を見つけたと言うことにもなる。
そして戦車道が武道であるならば、それは何の為に戦うか。何が為に戦うか。
持って回った言い方になったけれど、ガルパンというお話のなかで、西住みほが戦った理由は、浅いところで言えば大洗女子学園を守るために戦ったのであって、その理由をもたらしたのが角谷杏会長なのだから、お話の重要度という意味では会長はもう一人の主人公とも言えるという話。
角谷杏会長は為政者である。
己の為すべきを佳く識り、為すべきを為す。言うべきを語り、語らざるべきを言わない。
思えば立ち位置の難しいキャラではあるのだ。強引な手腕でもって物語を引っ張るキーパーソンであり、しかし憎まれ役ではない。おそらくはキャラを立てるのに繊細なまでに気を遣われ、敢えて語らず描写だけで語られることのとにかく多いキャラである。
例えば、作戦決定の際には必ず決定権を西住みほに委ねている。一度として例外なく、あの聞き慣れた「ねー、西住ちゃん」という一言で決定権を委譲する。
責任の回避という意味合いもあるかも知れないけれど、それ以上に為政者と、実働部隊との立場を厳格にわきまえているようにも感じるし、まだお話の浅い回では西住隊長自身が他部隊から信頼感を得られるよう、とにかく彼女を立てている風にも感じられる。
それから、戦車に関してずいぶんと詳しい。戦車の性能に不詳だったことがない。「38tは履帯が外れやすいからね」「89式よりはマシかー」「堅い奴らばっかで嫌んなっちゃうな」「戦車とは呼びたくない戦車だよね」とさらりと言う。そのくせ参謀役としてその知識を披瀝することはない。戦車道で廃校回避を狙うのだからと勉強を重ねたのかも知れないし、或いは戦車道経験者だったりするのかも知れないし。個人的には前者の説のが好きだ。
あと郷土愛が深い。あんこう鍋とか干し芋とか。単に食い意地がはってるだけかもしれない。あと率先してやたら楽しそうにあんこう踊り踊ってたりとか。単に踊りたかっただけかも知れない。
角谷杏とはこういう人物である。と明言はされない。ただ物語の陰にある部分で細かく積み重ねられる。
だから、底の知れない部分がある。
為政者たるを自覚し、分をわきまえて立ち回る。
作戦の決定権は常に隊長に譲り、対外的交渉(他校との挨拶)には率先して出張り、廃校が決定した後もそれの回避のため奔走しながら、その希望が希望であると確定するまでは腹心にさえ何も伝えず「会長はそれでいいんですか?」と哀願されるように問われても、いいとも悪いとも応えずただ「いつも通りの学生生活を送れ」とだけ言い置き、寸前まで秘匿する。
とにかく計算高い。
だから、彼女の天性である図太さも、豪胆さも計算のうちではないかと思わせる。
たまの愚痴も笑顔でこぼし、やーらーれーたーと明るく放言し、危険を伴う任務も「面白そうじゃん」の一言で引き受けるそれも。
むしろ率先して引き受けているようにもみえる。
いやむしろ西住ちゃんが杏会長の手腕を見越して危険な任務でも全うしてくれると託している……?
そこにある利害関係……いっそ共犯関係といってもいい?
トウトイ……アンミホトウトイ……。
けれどもそうした態度も綻んだことはあって。
一つは、劇場版。戦場の視察か夜更けの散歩かをしている西住みほ隊長と角谷杏会長の会話である。
さすがのさすがに今回ばかりは厳しい戦況を前に、会長が「どうする? 辞退という選択肢も……」と呟きかけたところに「それはあり得ません」と応えられるシーン。
この夜の丘のシーンだけでも一時間とってほしい。
とても大事で美しいシーンだ。
会長はお話のなかで常に常に厳しい立場に置かれながらも、目に見える形で弱音を吐いたことは一度もなかった。それを初めて見せた。
それは、こうまで為政者たるを自覚し、節度と分を弁えてきた杏会長が、初めて、進退の決定権を、今まで背負い続けてきた為政者としての責任を、他の誰かに委ねかけたシーンである。
言うなれば甘えだ。
それに対する西住みほの決然とした拒絶の美しさ。
「確かに今の状況では勝てません。ですがこの条件を取り付けるのも大変だったと思うんです」という前段の会話を連想すれば、「それはありえません。退いたら道はなくなります」という台詞も「この状況にしたのはあなただからその責任はとりましょう」という宣告にも受け取れるではないか。
そこからの「そうだね。厳しい戦いになるなー」「私たちの戦いはいつでもそうです」
というやりとりもまた美しい。尊い。
大学選抜との対戦という条件を取り付けるまではまるで杏会長の孤軍奮闘であったかのようだけど、いざ戦車戦ともなれば『私たちの戦い』になるのだ。
為政者と実働部隊とが繋がりあった言葉である。
いつもそうでしたよ。という部分もまた。今回ばかりでなく、無理強いにより巻き込まれたTVシリーズの大会もしっかり『私たちの戦い』であると柔らかく肯定しているのである。
トウトイ。
ホントトウトイ。
あたかも告白のシーンのようではないか。
そもそもが「この条件を取り付けるのも大変だったと思うんです」て時点でもうツウジアッテマスヨネ……トウトイ……。
しかもその後の試合最中にて「でも、背水の陣になるわ」という一言に「ウチはそういうの得意だよー?」と受けているのはやはりこのやりとりがあったからこそ……。
当たり前と言えば当たり前である。
学園艦の存亡なんて重荷に決まっている。会長としての責任感があっても、純然たる愛着があっても、だからこそ、天性の肝の太さがあろうとも軽々と背負えるものではない。
もう一つの大事なほころびは、TVシリーズのあんこう鍋とこたつのシーンである。
一般生徒のなかでも、西住みほにだけは大洗女子の実情を伝えようとするも、あんこう鍋と思い出話に終始し結局「西住ちゃんには事実を知って萎縮するより、のびのび試合してほしいからさ」と伝えられずに終わってしまう。
伝えるために呼び出したのに、躊躇のまま伝えられずに終わる。
ここからのぞけるのは、やはり学園艦の存亡という重荷と、それを誰かにも背負わせることへの躊躇いである。
西住みほの性格を考慮し、萎縮されて戦略に悪影響がでても困るという判断もあったかも知れないけれど。
角谷杏は豪胆ではあるけれど、脳天気ではないのかも知れないという言葉遊び。
「大洗も救えたし西住ちゃんも戦車道をまた好きになれたしオールオッケーだよねー」とは、たぶん言わない。
責任の重圧と、それを誰かに背負わせることへの躊躇。
為政者としての自覚。計算高い役割分担。
確かに最終的には西住みほは自分の戦車道を見出すことが出来た。
戦車道が武道であって、何の為に戦うかを見出すことがその道であるならば、「為」を西住みほに与えたのは「為政者」である角谷杏である。
武道ならばその道を歩む者はその道を突き進んだ先にしか答えはなくて、いっそその道を進むことそのものが答えでもあるだろう。自分で何いってるかちょっとわかんないけど、まあ戦車は進んだ場所が道となるらしいんで。
ならば、道を為す為政者は、どうすれば答えを見出せるのだろう。
為政の先に、確かに学園艦の存続という結果は出来たけれど、その道を作る為に払ったものはどうすれば清算できるのだろう。
為政者というものは大体において結果をみることは出来ないらしい。それこそ政治の結果なんて10年や20年経ってやっと影響が出てくるようなもんだしね。要するに、為政者の最期とはただ去ることしか出来ないのだ。
だから、学園艦の存続を勝ち得て、そこから初めて角谷杏のお話が始まるのだと言える。そんな気がする。
その一方で、酷くトラウマを植え付けられる結果となった戦車道と、そこから逃げて落ち延びた大洗女子という場所で、再び戦車道と向き合うことを無理強いさせられるというみぽりんと会長の出会いそのものがもうなんか作劇用語にあるそうなくらい劇的じゃないですか。極めて最悪な出会いから、通じ合い、信頼を育み、最後に固く抱き合うハッピーエンドですよ。
もうハッピーエンドじゃん。ゴールインじゃん。文字通りゴールインじゃん。
やはりみほあん大正義。結論はこれです。
スプラトゥーン2のここがイカんと思う。
イカんと思う。
発売を待ちわびSwitch争奪戦を乗り越えて購入したスプラトゥーン2は期待通りの面白さではありますが、主にガチエリアで、血眼になってガチりあって負けたり負けたり負けたりしておりますと、己の未熟さはさておいてゲームそのものに不備めいた部分があるよう感じられてきます。
自身のウデマエでなくそれ以外に原因を求めるのは典型的なアレさではあるけれども。それにしてもなんかこう「勝つにしても負けるにしても一方的なゲームや似た展開が多すぎやしないか……?」と感じられるんですよね。
勝ち負けそのものが問題じゃないんですよ。いやほんとに。
同じ勝つにしても負けるにしても楽しく勝ったり悔しがったりしたいじゃないですか。いやほんとに。
その理由や原因みたいなものを探り探り遊んでいると、なんかこー。ここがダメそこがダメと明確に指定できるような問題でなく、ただそこかしこに違和感として存在し、全体として、ちょっとずつダメな部分が蓄積された結果に「……なんかイカん気がする」という感じのダメさ。
だからかえって根が深そうで、修正されるにしても相当の工事が必要なんじゃねえのかなあという不安はありますが、まあそこはそれとして。
先に大前提を二つ書いておきます。
ひとつは「でも楽しいけどね」という点。諸々の些末枝葉な問題はさておいて基本的に楽しく血みどろインクまみれに暮らしております。
ふたつは「アプデで改善されるだろうけどね」という点。
みっつは「ダイナモはいまのまんまでいいんじゃね」という点。
間違えた。みっつだ。あああとよっつ目もあった。
「基本的にガチエリアの愚痴」です。
特に二つ目のそのうち修正されるだろうねという点は大事で。そもそもブキの修正はリリース直後から8月中旬での実施がアナウンスされていたり、すでにスペシャルゲージの必要値には手が入りました。その点で、今作はこまめにユーザーの声をフィードバックしていく姿勢なのかなとうかがえますし、前作でも様々なステージが様々な形で修正改修を加えられまくりました。
前作でみられたステージ修正を「改修工事」と表現。こういう世界観への配慮は嬉し楽しい。
なのでまあ、この文章を「だから2はダメだ!」みたいな指摘として効力を為さずただ単に「リリースから2週時点だとこんな感じだったんだね」という将来に向けてのメモとしての価値以上にはなんないことを担保するものです。
エリアまでの緩衝地点の存在がイカん。
今回のステージ設計の基本思想なのかな。どのステージにも、自陣・緩衝地帯・エリア・緩衝地帯・敵陣て感じの構成になってるのね。
エリアまでに間がある。この緩衝地帯があるおかげでワンサイドゲームが起きやすくなってるよう感じます。
マップでいうとこのへんね。
前作にも、リスポーン地点とエリアとの間にクッションのようなスペースはままあったけど、今作の一部マップではそれがずいぶんと明確に分かりやすく存在している。
ついでにその地点に諸々の配慮が足りてないように感じられる。
緩衝地帯があると何がイカんのか。
功罪あれどもどっちかというと罪の方が多い気がしますが、要するにエリアを保持している防衛側が有利になります。
少し詳しく言えば防衛側の有利が増すというか。
ただでさえ、エリアをとられた側はカウント進行・リスタートによる迎撃準備などなど諸々のリスクを背負わされて少なからずの不利状況に陥るわけですが、そっからさらにさらに不利を背負わされることとなる。
その理由をざっと列挙しますと。
単純にエリアまで遠くなる。
侵略側は時間制限を背負わされたも同然。要するにただでさえ不利を背負っているわけで、そこからさらに乗り越えなければならない緩衝地帯を用意されてさらに条件が悪くなります。
防衛側の突出がローリスクに。
緩衝地帯のおかげで、敵陣前は防衛側にとってもさほど不利な地形ではなくなりました。なのでみんな前に出る。
前に出て形勢不利となれば逃げればいい。それでも塗り広げることでのスペシャル確保や時間稼ぎは成功し、ローリスクに勝ちへ近づけます。
ついでに緩衝地帯のほとんどは構造上撤退もしやすい地形になってる。その理由は、緩衝地帯は侵略側にとっては侵略地だけど、侵攻側にとっては「通過地点」なんだよね。みんなエリアを取りに行く最初はほぼ必ず緩衝地点を通過するわけで、そこで通りづらかったらゲームのテンポが削がれるからね。
これの何が悪いかって、勝つためにはそれが分かりやすい手なのでみんなそれを選ぶ。
結果的に勝ちパターンも負けパターンも数が絞られてなんか同じ試合展開になりがち。
防衛側もスペシャルを溜める余裕が出てくる。
緩衝地帯という塗り地点があるから当然のことですね。これのおかげで侵略側の数少ない利点である「スペシャルで形勢逆転しやすい」て点が剥奪されてイーブンに。
しかも今回のスペシャルってなんか防衛側が使った方が性能を発揮しやすいのが多くねえ?
センプク待ち伏せされやすくなる。
緩衝地帯という広場の存在は待ち伏せからのキルというこのゲーム特有の強力なアンブッシュの成功率を高めます。
さらに緩衝地帯の存在によって裏取りのリスクが増大しており(後述)、結果、緩衝地帯からの復帰を選ぶイカが増えてこれもまた成功率上昇に寄与。
しかも防衛側はカウントを進めるための時間稼ぎさえできればいいので、相討ちでもかまわない。かなり分のいい戦略なのでそれを選ぶひとも多くなります。
塗りブキとキルブキ格差が生じる。
もちろん緩衝地帯は自陣近くから比較的安全に塗れる地点が用意されています。でも今回それもあんまりないように感じねえ? という点は検証不足なんでいったん置いときますと。
安全に塗れる地点から緩衝地帯を塗りつぶし安全を確保してからの侵攻、というのが復帰時の基本パターンなのは言わずもがなだけど、その点で塗りブキの存在感はあがっています。
けれどもみんながみんなわかばやモデラーを使えるわけではない。じゃあといってガロンやプライムばかりでは押し込まれた時に弱い。
ならばと選ぶのは塗りとキルの両立が可能なブキだよな。そう。ヒッセンのことだね。
あと焦ってんのか敵エリアの発光に魂がひかれてるのか緩衝地帯をろくに塗らずにつっこんでく稚魚イカが湧く。
Sランクでも割とみるのはなんなんでしょうね。きみたちはコジャッジくんに「足並みを合わせて進むのが肝要だ」と教えられなかったのかな。
上記の諸々はステージごとに違いは出てきますが大なり小なり存在するイカん点です。
これらが渾然一体となって「緩衝地帯は用意すべきではなかったのでは……?」という気分にさせられます。
何よりも、途中に書いたけど緩衝地帯までの侵略が分かりやすい適解なんでみんなそれを選んで似た試合展開ばかり起きがちて点を問題視したい。
せめて各ステージにもっと安全に塗れる地点を用意するか、緩衝地帯が進行しやすく、しかし撤退はしづらいみたいな投網めいた仕組みでハイリスクミドルターンな感じにしてくれれば……。
他のイカん気がする点を思いつくまま書いていきますと。
一度下りると逃げづらい。
これも一部ステージの話だけど大事な話。前作と比較すると一度下りるとヤるかヤられるかの二択になるステージが多い。そして、下りなければ塗れないステージもまた多い。
緩衝地帯の存在が二つの理由でその印象に拍車をかけてるかな。
- ステージの広さは有限で、緩衝地帯を設けた結果、エリア付近の広さが減らされ逃げ場が少ない。
- 緩衝地帯へは一応、多少、侵略側が踏み込みづらくなっている。
結果的にヤるorヤられるの二択で「逃げる」て選択肢がなくなっているよう感じます。
それって要するに塗りブキの存在価値の低減であり、ヤるorヤられるの二択化は「塗る」という選択肢が割を食うということでこのゲームの特性が削がれることのような気がしませんか。
机上の話になるけど、逃げづらいということはそんだけ数を頼みにした攻勢でゼンメツさせられやすいてことなんだよね。
これがワンサイドゲームが頻発する(ような印象を受ける)理由になってる気もする。
ステージに凹凸がありすぎ。
ほんとは好きなんだけどなあ。高低差のあるステージ。
しかし今作では細かいデコボコがありすぎて、センプクしやすいし、中距離以遠のブキが相対的に弱体化くらってるし、そのうえでヒッセンが環境に合いすぎだ。
要するに、先に有利をとった方がより地形的有利を確保しやすくなってるてことですかね。
エリアの位置おかしくない?
一部のステージだけではありますけどその一部がヒドい。特に造船所ステージはおかしい。お前これ雰囲気だけで設計したんじゃないですかもしかしてってくらいヒドい。
何がひどいかというと見晴らしが良すぎて侵攻ルートがモロバレ。広めの緩衝地帯も含めて防衛側がガン有利過ぎな気がしませんか。
まあ、それはそれで最初の争奪戦でのワンミス即終了というスリルはあるのでそういうゲームと割切ればいいのかも知れないけど……。
おかげで造船所の勝率4割切ってます。
前作だとほぼ全てのステージでエリアは低い位置にあったのに(例外的に団地。アロワナは微妙なとこ)。
何の意図があっての変更なのか理由がわからないレベルでちょっとおかしい。
スペシャルの不整合。あるいはジェットパック一強。
このゲームは塗り広げられた方が強いという特性があるのである意味当然ではあるんだけど、それにしたってほとんどのスペシャルが防衛側が使うと強いのばっかりじゃね?
ジャンプによる精度低減ペナルティって本当に必要?
イカはずいぶんと高軌道なシューターであって、パルクールだのウォールランだの目じゃないレベルで駆け回ります。
そういう多次元なゲームでテンションの高いゲームだからこそ楽しい部分はあるのに、ジャンプ撃ちでの精度悪化てその部分を削いではいないか。
まあ精度劣化は前作でもあったんだけど、今作では細かい段差や障害物が増えたので余計気になる。もちろん、それだけ場所取りや障害物の利用、ジャンプ撃ちと歩き撃ちの使い分けといった玄人レベルの楽しみは増えるから善し悪しな部分ではありますが。あるんだけども。
環境に合いすぎているヒッセン。
まあ修正が約束されてるけどね。
- 長距離武器の相対的弱体化による中距離武器の価値上昇。の中で、同射程内で図抜けているタイマン性能。
- 細かい段差のある中で、障害物を無効化して攻撃できるという特性。
- ジャンプ撃ちによる制度悪化の事実上の適応外。
- 緩衝地帯を奪いやすくする瞬間的な塗り能力。
- 緩衝地帯から敵安全地帯にも攻撃可能という特性。
と、単に強いけどそこからさらに環境に合いすぎてる。まるで公園の池に放たれたブルーギル。
それでも前回初期のローラーに比べたらマシだと思うけどね。ロラコラは文字通りゲームぶっ壊して短射程ブキの存在を駆逐してたから、アレに比べると……比べてもしょうがない話をワキに置いといても、ステージの調整不足という前では問題点としては比較的些細。
などなどなどなど……。
書いてるとどんどん紳士の皮が剥がれ落ちて口から汚めのインクがびちゃびちゃ出てくるのを感じるけどともあれ諸々出し終えてすっきり。
このひとほんとエリアしか遊んでないんだね。
まあ、一度とられると奪い返すのが難しい短時間決着なエリアルールもそれはそれでそういうものと割切れば楽しくなくはないのだけど、でも今のところそれはゲームの短絡化であるよう感じられるのです。それが今後どうなるかはわかんないけど、ともあれリリース直後の印象て点ではメモしておく価値はいずれ出てくるでしょう。オレだけに。
なのでバイトでもしながらアップデートを待ちたいと思います。
それにしてもサーモンランの楽しさこそが、このスプラトゥーンてゲームの構造そのものの強度を証明してるように感じるんですよね。
ほんとサーモンランで長めのCOOPなキャンペーンとか遊びたい。対戦はそれはそれとして切り離してフルプライスなゲームにでもしてくれればL4D2以来の大傑作に列せられること確実だと思うんだけど、マジでどうですかねイカ研究所さん。
L4D2の対戦もあれはあれで良く出来たゲームだったんだよなーと話題がそれ始めたところでぬりたくーるテンタクルー。
ガチャのゆがみと小梅ちゃんのひずみとわたしの。
歪んでいるとして。
ソーシャルゲームにおけるいわゆるガチャ商法が歪んでいるのは事実だろう。
事実だろう。
事実ではなかろうか。
違うだろうか。
なんか違う気がしてきた。例えばギャンブルあたりと比べてみたらどうだろう。ギャンブルはどんなものであれ胴元が利益を得るよう確率が設定されているので、どんだけ金と時間を費やしても費やせば費やすほど損に傾く仕組みで要するに金と時間で得られるものは一時的な興奮のみてことになる。
金と時間を費やして得られるものは一時的な興奮のみ。
こう書くとガチャと大体同じだね。
……ギャンブルて歪んでるんかな。……まあ歪んでるかな。多くのギャンブルはあきないというよりかは集金手段であって、公共事業に類するものとして世の中に存在を認められているわけだから……まあそっち方面に話を延ばすとややこしいというか話が別方向に進んじゃうからいいや。
ガチャは歪んでると言うことにしといてください。
対象Aをお求めですか。お金と引き換えに入手してください。
しかし対象Aはいくらで購入できるかわかりません。
ひとによっては120円で入手できますがひとによっては50万円費やしてもお売りできません。
ついでにお渡しするタイミングはこちらが掌握しております。50万円と交換にほしくもないものが50万円分お手元に届くかもしれませんが、50万円と120円を費やしたタイミングでお売りする可能性もあります。
そんなだからお渡しした商品の金銭的価値は一切保証できません。
購入した当人にのみ利用が可能であり転売や譲渡・交換は一切禁止されております。
120円で買おうが50万円で買おうがそれの価値はほぼ皆無です。
お手元に残り続ける保証もありません。こちらの提供するサービスの終了とともにあなたの利用権も一切合切失われます。
まあそれはそれとして。
小梅ちゃんのなかにあるひずみ。
今回のヨモスガラパーティーは、久々に、私のみたかった小梅ちゃんの表情(側面)をみることができたような気がするんだよね。
小梅ちゃんの特徴といえばホラー・スプラッタ映画が大好きで、死者の存在を見通し心を寄せることができる点でしょう。
死と腐敗と暴力と危険と血と暗がりや孤独と悲しみ。
一般にアイドルから連想されるポジティブなイメージとは真反なそれらに心を砕き、自らの個性だと自認し、それらへの愛おしさとともにステージという明るい場所に立つ。
廃墟のなかで、凶兆を多く背負い、死臭のただ中で自然に笑い、あまつさえ「こっちにおいで」と誘う。
なんて蠱惑的な。あるいはなんて淫靡な。
死を無視して通ることのできない私たちはだからこそ死を普段ないもののようにして過ごす。それを、そこに、何を衒うことなく触れることのできる小梅ちゃんは無垢なままに禁忌を犯しているのにも等しく、死生観に頬寄せるその姿は有り体にいえばエロい。
ひとの視線を集めることもアイドルとしての素質ならば、極めて強力な武器を小梅ちゃんは無自覚なままに振りかざしている。
ネガな部分を克服し、ポジティブの象徴であるアイドルへと成長し皆の憧れる存在となる。
それも物語としては王道ではあるけれど、ネガな部分は小梅ちゃんにとって心臓か、脳髄か、目玉か、舌か肺か指先にも等しく、彼女自身もそれを自認している。だからその道は選べない。
ゾンビを愛し、亡霊を友人とする彼女の核にあるのは「虐げられたもの、押しやられたもの、輪に加われぬもの」への憐憫と共感であろう。
であればこそたどり着いた「私、みんなとちょっと違うけど……アイドルになって、良かったです」「私、暗いけど……みんなも暗くてもいいんだよって……ファンに伝えたいな……」という境地。
だからこそ小梅ちゃんは怪物たちとともに踊る。
忌まわしいものに手を差し伸べ、救われないものの手を取って。そのダンス・マカブルこそが小梅ちゃんのみが為し得るアイドルとしての姿だ。
要するに小梅ちゃんはネガティブな部分を克服してはダメなのだ。ネガティブも自分自身だと認めたからこその小梅ちゃんなのだ。
明るく、健やかであることだけがアイドルじゃねえ。
アイドルと、アイドルというイメージから反目するものごとと、それを同時に抱えたひずみこそが小梅ちゃんであり。
小梅ちゃんのテキストを担当される運営の皆様方におかれてはその部分にこそ重きを置いていただきたく願う次第である。
あとエロいよね今回の小梅ちゃん。
「露出は抑えながらもきわどさを忘れないフェチズムにあふれた衣装」てのは初登場時から続く小梅ちゃんに欠かせぬ魅力の一つであって、その点でも今回はなんだか久々な気がしてああああもうステキーエローイという感じだ。
「ここが脇ですよ!」と教えてくれるようにひらひらして視線を集める肩紐といい、ピンポイントに透けたへそ部分といい……似合う曲が極端に限られるという欠点こそぶっちぎりつつ、それらが強調されるPVならなんでもオススメだけど敢えて選ぶなら「恋のハンバーグ」だろうか。
曲調のせいか、脳みそが絶好調な状態ならエプロン姿にみえてくるので挙げておきたい。脳みそが絶好調ならな!
なにがゆがんでいるのか。
ガチャが歪んでいるとして。
歪んでいるものに適応できるならばそいつも歪んでいるのだ。
お金の価値はひとそれぞれというのはもちろんだけど、ソシャゲの限定ガチャに50万円も費やせるひとは少なからず歪んでいるに違いない。
この場合、歪んでいるのは金銭感覚となる。
その歪みがどれくらい大きいかはわかんないけど。歪みの大小を問わないならば費やした金額が100円であれ1万円であれやっぱり歪んでることになっちゃうけどね。
だから私も歪んでいるのだろう。
私はワーキングのプーさんだからいくらかなりとも金銭感覚の歪みは少なく済んでると思うけど……吝嗇はそれはそれで歪んでるといえるけども。
その代わりに他の部分が歪んでいる気がする。
言葉に直せばたぶん執着。
小梅ちゃん限定ガチャを、限定小梅ちゃんをくだらないものと切って捨てるのはそんなに難しくはないはずなんだよね。
もしも私に「小梅ちゃん? そんなもんに金使ってるの?」と言うひとが現れるなら私が凶器になるものを手にしてない状態にしといてほしいけど。
まあ。難しくはないはずなんだけど。
それを難しくないと受け入れるのが怖い。
何が怖いかというとコンテンツとのつながりを失うのが怖い。
四肢の冷たさにガクガク震えながらクレジット決済で有償石の購入を繰り返すのも。
消えた金額で出来たことを思って気力を失い労働そのものに嫌気がさすのも。
限定ガチャに備えて無償石を貯め込むべくイベントをこなすのも。
そうしてこなした時間を時給になおして入手した石の実質価値を思うのも。
あるいは、今までCoイベントの報酬は逃してないのでそれを維持すべく時間を割くのも。
諸々もうやりたくなければやらなきゃいいじゃんという正論の前には無力な労力である。
けれどもそれを無意味だと断じてしまったならば、デレステというゲームのほぼすべてが無価値なものになる。
ひとは、あるいは私は、意味がないと感じるものに付き合うのがひどく苦手な生態をしているのだと経験的によく知っている。
たぶん「空しさ」とは万人にとって毒だ。強烈な。
私は小梅ちゃんが好きだし、アイマスもしくはデレマスというコンテンツがだいぶ好きだ。
それとの繋がりはあんまり失いたくない。
デレステというゲームはそのコンテンツを繋ぐ線のなかでは相当太い方には違いなく、そしてそれが切れてしまえば修復の難しい線であることは想像に難くない。
もちろん、デレステを辞めながらもコンテンツに触れ続けることは可能だろうけど、それら代替え手段にある種の白々しさを感じずに続けられるか。白々しさを感じる自分に嘘をつきながら続けられるかどうかはあまり試したくはない。
この執着がわたしにあるゆがみなのだろうなと思う。
小梅ちゃん限定ガチャに震えなければ、それに震えるだけの熱量をデレステに対して持てなければ。私はそれに震えていると自覚できなければ。
自己欺瞞に近いだろうか? たぶんそうだと思うけれど、自覚せずにはいられない。
『愛と執着とは似て異なるものである』
ゆがみは悪いものなのか。
ところで、ガチャが悪かというとそれはそれという話をしたくなる。
色々と意見は世に氾濫せども、ガチャを回しているのはどこまでも彼の指であって自己意思である。
嫌ならやらなければいい。正論だ。
キャラクターやゲームへの愛着を売り物にして、「お前の嫁はあずかった返してほしくば身代金を用意しろただし金額は時価となりますし一度返した嫁はまた何度でも攫いなおします」とか言う商売形態もどうかと思い続けてもはや数年ではあるけれど。
ガチャという集金形態が効率的すぎて、ガチャを集金手段としないゲームがどんどん追いやられてるという意見もあるだろうけどそれが妥当な意見かというといくらか疑問はでてくるし。その話はいいや。
それでも本人が納得して出資してるからいいじゃないか。
デレマスがアニメ化した頃を境にして、ガチャのことを「形を変えたクラウドファンドだ」という表現が散見されるようになったと思う。
アニメ一話をして「おれたちの課金が正しく報われた」という声もあった。私個人としてはアニメの出来にはいくらか意見はあれども今回はその話はどうでもいいとして。
月末ガチャに50万ぶっこむようなひとがいるからこそ小梅ちゃんのモデリングは美しくなるし、総選挙に目の色を変えるひとがいてくれるからこそ新たに声帯を獲得するアイドルがでてくる。
100%望む形で反映されるとは限らないけれど。
デレステもテキストに注文をつけたくなることが多々あるし、CDもこれ以上は望むべくもないリリースペースではあるけどもそのなかで極めて素直にこれは好きだ! といえる曲が多いかというと決してそうではないし。まあそれはいい。
歪んでいるのが事実としても、歪んでいることが悪いかどうかはまた別問題なのだと思う。
だから、私は限定小梅ちゃんは半ば以上諦める準備をしていたのだ。
限定ガチャにいくばくか突っ込んで、やたらさらさらと流れる汗とともに小梅ちゃんへの執着を確認できただけで、私にとっての限定ガチャの意味は果たせていたようにも思う。
あとは、タイミングよくきてくれた一日一回無料ガチャキャンペーンと、せめてもの60ガチャのみを回して、いつかくるだろう限定復刻まで夜露を舐めて侘しく過ごそう。それがまたデレステを続けるモチベーションに、コンテンツとのつながりになるだろうと。
わたしは元々ホラー映画が好きだ。怪談話が好きだ。遊園地でも絶叫マシンは同じものを何回か通じて乗る。
恐怖もまた娯楽だと知っているからだ。
娯楽には元々そういう側面がある。
ちょっと前に、どこかのお坊さんが「ソシャゲを辞められません」という相談に答えて「私は艦これを辞めました。優れたゲームとはひとを爽やかな気持ちにさせてくれるものです」と答えててうるせえ知るかバカやろう貴様のような虚構に募る感情を軽々しく否定するようなやつがL4D2を知ったツラで語ってんじゃねえよ例えば食いしばった歯から血のにじむような思いで怒りと憎しみを抱え夢中であそぶ対戦ゲだってあったっていいじゃねえかとか思ったことがあるんだけど。
仏教でいうと執着とはまず捨て去らなければならないものだそうです。
やらなくていいこと、知らなくていい感情をわざわざやりに、知りに行く行為という側面が趣味にはある。
山登りや自転車乗りなんかはやらなくていい苦労をわざわざ自分からやりに行っているともいえるわけで。
ホラー映画もわざわざ自分から恐怖を感じに行っているのであり、恋愛ゲームなんかわざわざ自分から恥ずかしい思いをしに行っているとも言える。
ガチャという虚空に消えていく無価値なものに費やしたとしても、この胸が抱える痛みは現実なのである。
とかいうと観念的すぎるか。
だから、とにかく、こう。
極論なのか、詭弁なのか、開き直りなのか錯乱してるのか判然としないけれど、意中のアイドルを入手できないこの脂汗も、あるいは、意中にアイドルを定めることによる醍醐味とも言えなくも……。
……ああ、やっぱりそう公言するのはどこか憚れる。
それにしたとしても、その歪みこそが。あるいは。
歪んでいることが悪いことかよいことか、結論はできないとしても。
デレステの小梅ちゃんイベントで2000位を目指した記録。
何が起きたか。
小梅ちゃんが笑った。
何が起きたかを詳しくいうと。
小梅ちゃんが幸子と一緒に笑った。しかも輝子もいるに違いない。
前日。
イベント上位2000位に入賞すれば☆15のアイドルが手に入る。
という仕様変更のおかげで2000位のボーダーが跳ね上がったのはつい最近のことなので実際どうなるかはわからんにせよ、やることはひたすらスマホをぺちぺち叩くのみだし、アクティブユーザーの1%以下の席を奪い合う争いなんぞ参加する気になる人間からして限られているに違いない。
だから過去に一度行われた同形式のイベントの数値だけでも、2000位を目指すにどのくらいの労力が必要か十分な精度で予測可能なはずだ。
ざっくり計算してみると。
・一日のノルマ
15000pt
・ ノルマ達成に必要な曲数
95曲(前半/スタミナ2倍)
・必要石数
1250個
・一日分の所要時間
240分
正気?
イベント開始前は終了日が明示されてないので何日分かかるかはわからない。
とりあえずは一週間だとして、日数はもちろんだけど終了日が祝祭日ならそんだけ競走人数が増えてボーダーも加速する。
あ。吐きそう。
2000位争いに参加しない理由はいくらでもあるのだ。
時間のムダ。カネのムダ。かかるコストに対しリターンが乏しすぎる。
未だに納得のいかないソシャゲ経済の輪転に荷担するのも抵抗がないわけでもないし。小梅ちゃんへの愛を示すに手段はひとつにあらず。かかる時間を二次創作にでも回すべきでは。
等々やらない理由はいくらでもある。
しかし、予測のエグさにどれだけ嘔吐いたとしても、それが実行可能な数字である以上、求められるのは「やる」「やらない」の二択である。やらないと決めるにしても諸々の未練を断つ決断力みたいなものが求められるのだ。
イベント当日。
YとDが混ざった。
早速「うちらの幸子はん」というジャブから入るD。
(大事な注釈:アニメ基準の設定なので輿水幸子はKBYDが唯一のユニットだからこの挨拶も当然なのだ!)
うん。まあ。
「小梅ちゃんイベ!」「142'sがついに公式イベ!!」と前のめっていただけに飛び乗った踏み台の足が一本抜けてたみたいな気分になったのが正直なところではあるけれど。
私が「142'sが次に公式に触れられるのはいつのことになろうかこのまま忘れ去られはしないか」とはらはらしてたのと同じくらいに「KBYDがアニメ限定の飛沫ユニットとして処理されるのではあるまいか」と気を揉んでいた人々がいるわけで。似た思いをあしざまに扱うのは難しい。
ならば、30万アクティブユーザーになんなんとするデレステなのだから、無闇にユニットの登場を急ぐでなく、ロングテールに、徐々に、まずは142'sイベで。次にKBYDイベでと小出しにしつつ個別にユニット曲を設けるのが商売としては賢いやり口なのではあるまいかとの言いがかりに発展はするのだけど。
それをいうならば。デレステがこのまま長くなるべく長くユーザーから搾取を続けていくならば、その最中にまた142'sイベが催されることも期待できるはずである。たぶん。
だからまあ。今後に期待としまして。
ぐちぐちと愚痴ってもしょうがない話は別にして、多少実利面での問題としては、イベント開始当日となっても結局小梅ちゃん☆15を目指し2000位以内という峻厳な崖をよじのぼるや否や、腹が据わってなかった点である。
イベント開始して。
ああもういてもたってもいられねえ。
予測の数字なんか知ったこっちゃねえおれのこの滾る情熱は走ることでしか消化できねえよさあ石をもってきておくれあらんかぎりの石をおれの炉にかっ込んでおくれ的な気分になって選択の余地なく気が付いていれば走っていたみたく状態に陥るのがある意味では理想だっただけに。
このつまづきはそれなりにしんどい。
しかしカワイイボクとキノコに寄り添われ微笑む小梅ちゃんはかわいい。
求めていた142'sはまさしくこれだろう。
ならばこの特訓前の小梅ちゃんを特訓前のままに☆14で保管し続け、プロフ画面に固定してドヤる。あるいは、これこそが私がデレステに求めていたもの、求めているものだと運営に対し示すのが採るべき道ではあるまいかとかどうとか。
まあ色々いっても結局はあきらめた方がよいものをあきらめきれるだけの精神を養えなかっただけではある。
実戦
初日
どのみち使い切るのである。いわば実弾である石を消耗するよりも先にスタドリの在庫を一掃しとくべきだろう。
実際のところ、スタドリMAXもこのときより他に使い道があろうか。
スタドリ30
+++++++++
スタドリ20
+++++++++++++++++++++
スタドリ10
++++++++++++++++++++
スタドリMAX
+++++++
石
++++
LvUP
+
二日目
ナチュラルにやみにのまれる端数分のゾンビート。
イベントアイテムは9999個までしか溜められない。
一日のノルマである15000ptを稼ぐには、7000個消費する必要がある。
一日のうちに7000個消費しなければ、翌日は走ることさえ出来ない。
考えればわかることだけど、いざ走るまで気付かなかった。
4倍消費期間を前に7000個その日のうちに使い切れ、というのは相当な時間的消耗だ。
それも見越したうえでの「一日4時間がノルマ」という計算だったので予定に差し障りはないものの。
もちろん一日15000ptというノルマは全日通しての平均値であって、消費しきれなかったノルマは翌日に回したってかまわない。
それでも時間は限られている。一日で稼げる上限は自ずと厳然と存在するわけで、安易にサボれるわけでもない。
緩んだ結果に、2000位入賞をあきらめるほかない状態が待ち構えていると思えば、精神的になかなか来るものがある。
ネイションブルーが100回達成。
250石はおいしいもののSASという表示はなんだか。なんだか。
ともあれプレイ回数のS回収という余録を意識するならこのままフルコンボを目指すよりも他の100回未達成な曲を埋めていくべきか。
スタドリ20
++++
石
+++++++++++++++++++++
LvUP
+
三日目
諸々日常諸般の用事を終えておうちに帰って自分の部屋に寝転んでもこの作業が待っている。
あんまり開放感がない。
首輪の鎖が始終ちゃりちゃりと音を鳴らしているような、イヤな緊張感が持続している。もちろん望み得た束縛ではあるものの。
そういえば、イベント期日は一週間ぴったりだった。開始前に恐れていた土日終了もなく最終日はド平日の金曜日である。ならばボーダーも緩むかというとそうでもないらしく、ボーダー予報士の楓さんいわく、現在の予測地点は102000ptだそうだ。
つまり一日15000でも不足らしい。オェ。
Coアイドル全員の有力担当の称号獲得を当面の目標として遊んでる。
篠原さん30万人。ひじりん10万人をそれぞれ達成。
LvUPによってスタミナ上限がひとつあがった。まだあがるんだな。
この日のうちに小梅ちゃんをお迎えした。
ここから即息絶えても正直構わないところではある。
3人の幸せな記憶。とナチュラルにYとDを員数外にする小梅ちゃん。
(大事な注釈:3人で小旅行に出かけたイベントコミュのことを言っているだけです)
スタドリ20
+
スタドリ10
+
石
++++++++++++++
LvUP
+
四日目
息抜きに小一時間でもゲームしようかどうしようか迷う。
……デレステも一応ゲームじゃなかったっけ。まあ。なんというか。人を撃ち殺す類いのゲームをしたい。
イベントマラソンのお供にはするめが最適であるな。
甘いものと違って食べ過ぎて胸を悪くすることもなく、豆菓子のようにカロリーが気になるでもなく、もっちゃもっちゃ噛んでいれば量も食べ過ぎず済む。空腹に中座する必要もなくなるし。
モバマスのイベントも上位報酬の小梅ちゃん目当てに走ったことがある。
あちらは映画でも観つついくらでもよそ見をしながら遊べたので楽は楽だった。
「悪魔のいけにえ」で、レザーフェイスに追っかけ回される女の子が長く長く悲鳴を引いて逃げ惑う名シーンのさなかに、小梅ちゃんが8回くらい連続でパーフェクトを出したあの偶然が忘れられない。
イベント曲を消化。今回のMaster+を続けてったらば腕にまでダメージがきそうだ。
フルコンボを目指す道程はこのゲームにおいて最もゲームらしい部分ではあるので、イベントアイテムを消費している時ばかりはどんだけ時間を費やしていてもなんだか気は楽だ。
しかし、後半の4倍消費を待たず普通に遊んでいたらば最終的には一曲ごとに6分損していることになる。地獄か。
石
++++++
五日目
あれ……4倍消費の後半戦がこないんですけど……こないんですけど……。
まあ4倍消費がこないほうが、それだけ競走も抑えられてボーダーも控えめにはなるのだろうけど、それよりも個人的なノルマ達成が短縮できない方が気分的に重いという本末転倒。
実際のところ、五日目ともなれば逃避の具合が深刻化してきているのか、気が付けばただ天井を眺めるだけで30分ほど過ごしていた。何の退屈も感じず。
スマホをぺちぺちせずに済むというだけでもはや娯楽に近い気分転換。
うーん。どうにも気力が沸かなくてスマホをすべすべ撫でるくらいしかできない。
— ぐしゃろごす。 (@tehihi) 2017年1月24日
だるくてスマホをすべすべすべ。
— ぐしゃろごす。 (@tehihi) 2017年1月24日
すべすべすべすべすべ。
— ぐしゃろごす。 (@tehihi) 2017年1月24日
……すべすべしてる場合ちゃうねん。ペタペタせなあかんねん。
— ぐしゃろごす。 (@tehihi) 2017年1月24日
音ゲをやりこむに相応しい態度とはいえないが、走りながらずっと耳だけで完結する番組や落語を聞いている。
志の輔さんと談志の立川師弟の噺を聞き比べてみたりとか。
Eテレの100分de名著て番組の録画を聴いてアドラー心理学だのレヴィストロースの構造主義についてなんか語れる様な気分になったりとか。
石
++++++++++++++
LvUP
+
六日目。
結局後半戦の4倍消費開始はこの日にきた。
ボーダーの日速を確認してみれば最終ボーダーにもとくに影響はなさそうだ。
最終日は調整として、できれば今日で決着を付けたいところだけど……眠気に負けてあまり走れず。
マラソンの最大の敵は眠気だと悟る。手元が危うくライブ失敗を繰り返しては徒労もいいところだ。
ポイントは50000を達成し、ポイント報酬は全て回収済み。
初めてみた表示だけど、しかし曲をクリアする度に「もうどんだけポイント稼いでもなんも無いからな」と確認されるのはなんだか辛いものがある気がする。
石
+++++++++++++++++
LvUP
+
最終日。
本当の勝負開始。
手持ちの石が10000切った。計算のウチではあるけども桁が下がるというのはそれだけでプレッシャーがある。
これまでに消費したアイテムと石とを数えてはきたけど、アイテムを消費した個数や時間は計上してない。すれば良かったかな。ストップウォッチ片手に。
最終日の弾みにしようと、それまで読むのを後回しにしていたイベントコミュを閲覧する。
でも……なんかこう……142とYとDとの絡みがほぼ無くてさあ……これだと単に5回と限られたコミュ数を無意味に分け合うだけになるじゃん……? やっぱ個別にすべきだったんじゃねえかなあラブレターの前例だってあるしさあと唇をへの字に曲げただけに留まる。
惜しいねん色々と。
諸々のさぼりのツケの清算を迫られる。4倍期間のみじかさはどちらかというとこういう形で発露するのだな。
いつもの最低ノルマに載っけて3時間の追加を求められて、それもなんとな捻出はしたもののボーダーが背後にあってはどんだけ稼いでも安心はできない。
一時間で4000ptは稼げるから……いや、仮に現時点でイベントアイテムを9000個持っているならば……。
小梅ちゃんもボーダー確認してくれるし。
ボーダーに脅迫観念を植え付けられながらも、結局できることもやることも変わらない。途中気分転換に遊んだEVER MOREがかんたんにフルコン取れたりと軽いイレギュラーはあったものの粛々と時間を迎えた。
スタドリ30
+++++++++
スタドリ20
++++++
スタドリ10
+++
石
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
LvUP
+
終わってみれば。
1142位くらいに軟着陸したかったけど最終的には1156位でした。
事前に予想したのとほぼ寸分違わないしんどさばかりがあった。
要するに何の救いも甘さもなかったということだけど。
いずれにせよ計算通りに遂行さえ出来れば確実に目標を達成でき入手できるのだから、例えそれに一週間の期間を求められようとも、終わってみればたかが一週間である。
その一週間も、月末限定で一瞬に消える2500石をガタガタ震えながら注ぎ込むあの小一時間に比べれば易く、はるかにマシだ。ガチャはやはり悪い文明。
2000位以内を目指すのならば、課題曲もかなり遊び込む必要があるわけで、ならば初のMaster+フルコンもあり得るんかなとか思っていたけれども実際はMasterさえフルコンできなかった。一応銅トロフィーは取れたけど。
これは、常時4倍で走らざるを得ず、単純なスコアアタックを試みるのよりもプレイ回数はかえって目減りしたであろうことが原因と考えられる。無論、私の腕前がへちょいところが大ではあろうが。
同じく、難度26の曲くらいは全部フルコンで埋められるかなとか思ってたけど、3曲新たにフルコンできただけに留まった。これは、義務に近い感覚で延々遊んでいるさなかに1ミスをしたときの、それでも続けなければならない心理的負担が相応にのしかかってくるので、自然にフルコンに賭ける真剣味を薄れさせたことが原因ではなかろうか。無論私の腕前へちょ。
そのへんを思うと、やはりイベントで走るという行為は、普段遊ぶ音ゲーのそれとはどこかが決定的に変質しているのである。
ともあれ、これをもって、次回142'sイベ祈願のお百度参りの完遂としたい。
アンダーザデスク&インディビジュアルでもいいし、りょううめでも構わないところはあるものの。とにかくよろしく。
リザルト
消費
スタミナドリンク:2017ドリンク(石1250個分相当)
スタージュエル:6250個
一週間における自由時間の大半。
(曲数になおせばおよそ前半350曲・後半230曲の計580曲)
収穫
LvUP 6回(Lv158→Lv164)
ファン数 173万6470人(兼親愛度稼ぎ。スコア重視編成ならこの倍は稼げたかも)
スタージュエル 875個(イベント報酬・プレイ回数称号・イベントコミュ含む / アイドルコミュ等含まず)
バーナード嬢曰くの3巻のリアルタイム感想の残り半分。
やってみたかったことではあるんだけど、初読時にやらなきゃ意味がないだろうと思ったせいで、それが出来るタイミングを待ってたら購入からおよそ半年経ってたなんつってな。
一冊読むのに8時間くらいかかったけどかなりの満足を得られる読書法ではありました。
・動物の名前。
そうね。私も「お前は私に飼育される存在になるのだ」みたいな気分で名前を付けることが多い。
その一方で一応共同生活を送る上での機能性もあるんですよ。名前呼べば「なんか用があるらしい」て事に気付いて貰えるんで。
・平行して複数の本を読む。
森川幸人というひとが集中力の逆として分散力って言葉を使ってたな。正確には最初に言ったのは糸井重里だった気もするけど。
一冊読まなければ次を読まないなんてのもこだわりというよりかはいっそ悪癖なのかも知れない。
・どの本とも最後まで付き合えない、と自然と擬人化めいた言い方になってるあたりさわ子ももう相当本好き。
・ふしだらだぞと叫ぶJKとかかわいすぎて国に保護されるべき。
・ところでさわ子のその行為がふしだらなのだとしたら「最後まで付き合う」てどういうことになんの? エロくない?
・読書家は見切るのが早い。
たまに言われる「冒頭3行でその本の価値が分かる」的なのは要するにそういうことな気がする。
・神林しおりは未練がましい。はい覚えておきましょう。
・中断したまま数ヶ月。でもみんなまだJK。
……作中で明言されてないと思うけど、JKでいいんだよな。バイトしてるし。
・「みててもいいですか?」 お。踏み込むね長谷川さん。
さっきの「最後まで付き合う」がどういうことか考えたら相当な覗き趣味だよね。
・映画は別物。
映画化を手がけたら原作者から「アレは違う」つって映画の不満点を改めて修正した続刊を刊行されたり、「まあ別物だよね」ときっぱり言われたり、「むしろおれの書いた小説よりもおれの言いたいことを表現してくれた」と褒められたりと何かと一言言われがちなキューブリックという爺さんのことを思い出す。
・本を読んでもいいかなという遠慮。
コミュ障というほどではないにせよ神林しおりは友達そんなにいないんだろうなというところが察せるくだり。
(あらゆるジャンルの二次創作界隈になぜか必ず存在する「○○はぼっちだよ」と言いたがる勢)
・二人で喫茶店に来ながら別々に小説読んでたりするのがおれの理想のカップル像です。
・さわしおが二人の関係に終始している中でちゃんと文学な話題は大体遠藤君の担当になってるのね。
おじさんが若者だったときは『小惑星が地球に衝突して人類が滅ぶ可能性だってあるんだぜ』というTVの特番に対して「世の中にそんな劇的なことが起こるはずがないじゃないか」という態度を取ったのがそれに近いと思う。
・そっちの方が遠藤さんらしいです。町田さんは豊かな人生を送りそうですね。
という長谷川さんの表情から伝わる施川ユウキ先生の魂の筆致。
長谷川さんがだんだん図太さを身につけ始めている。
・殴った! 65ページにしてついに殴った!
・ハートとか葉っぱとかを泡で描いたカプチーノを横に置きたい。
具体性に笑う。
・基本的にさわ子のいいなりよね神林、
・エドワードゴーリーおれも好き。
おぞましい二人は後書きまで含めてなんだかすさまじかったな。
創作は誰かに奉仕するための存在などではないのだ。
・我々は村上春樹の呪縛から逃れることはできないのだ。
時空を超えて何度私たちの前に立ちはだかるのだ……村上春樹!!
・関係の中の読書。て所から軸がぶれないよねさわ子。
・歯痛の話を取り扱った本……思い出せそうなそもそも読んだことがなさそうな……ああ……。
・誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
ものすごい名文にこのオチ。このダイナミックな冒涜がバーナード嬢曰くの大事な魅力といえる。いいたい。
しかしほんと泣ける。
・この状態……ケンカだったのか! と今さら気味に気付くしおりさんはやっぱり今まであんまり友達がいなかったですね?
・理性は、理知的であろうと努めることは、感情を蔑ろにするわけでは決してないし、
常に問題を明瞭に平易にしてくれる。
「貸した本、結構ちゃんと最後まで読んでくれるんだよね……」という気づき方が、もうね。
相手が本を好きだといってくれたこと。こちらが渡した本がどんな内容か知ろうとしてくれたこと。
自分がその本でなにを感じたか知ろうとしてくれたこと。
それがどんだけ尊い行為であるか。そこからほだされるあたりほんとにもー神林しおりがおれにとっての理想的な文学少女であると思いを新たにしますよ。
一方で、町田さわ子は理性や理知でなく、「神林に嫌われたくない」という直感でまず最初に謝ってるんだよな。
この関係ですよ。
もちろん、ギャグ漫画と物語との間に優劣なんて存在しない。それを前提とした上で。
バーナード嬢曰くは確かにギャグ漫画ではある。
けれども物語としての機能も十全に備えている。
読書を中心とした人同士の繋がりのお話である。
・タイムトラベルものに猫って良く出てくるよね。
ごめん夏への扉しか知らない。
・さわ子はさわ子で 、「そっちは後で読むよ!」と断言できるその躊躇のなさが私にとって異星人みたくみえる。
・読み方を強制してはいけない……とこらえる神林しおりの人間的成長の軌跡をみよ!!
・人は何かを辞めるときでさえ何か理由を付けないと辞められない。
とは立川談志の言葉。
・犬が出てくるSF。やべ。SFどころか文学全体でもちょっと思いつかない。
・ポチはポチで同じポチでもどの作品のポチかで違うのはそうかも知れない。
・あ、サンリオSF文庫だ。
・さるかに合戦とレザボアドッグス。
まあ確かに、歌いながら耳を削ぐバイオレンスシーンみたく拷問が散見される昔話ではある。
・グフフフという笑い方をしてもなお神林しおりはかわいい。
・それはそれとして除虫菊皆活字中毒の韻。普通によくない?
・手に入れたくてずっと探してた本ー。
というと私にとっては詩人の夢かなあ。amazonとか日本の古本屋のおかげでもうそんなに探すことももはやないけど。
それによって失われるロマンは確かにあるだろうけどそれでもその便利さは肯定してしまいたい。
・もしかして遠藤君このマンガのなかで一番キャラ濃くない?
・手に入れることが目的になると。しおりちゃんまたそういうめんどくさいこというー。
古本屋さんでお手伝いしてたときにそういう、なんかもうとにかく本を買うのが目的になってるよねって爺さんを何人かみたな。上客でした。
・恥ずかしがってる神林を額縁にかざろう。
・同じ話を何度だってする……!! てアレよね。マサシがいうところの関白宣言ってやつよね。
お前を嫁にする前に言っておきたいことがあるってやつよね。まあちょっとは覚悟しておけってやつよね。
その答えが「何度だって聞くよ?」ですよ。なんなんだよもうおれをどうしたいんですか。
・て、ネットでみた。とは我々凡人にとっては常にエクスキューズであるのにこの堂々さたるや。
・図書館警察。怪物を掴んだときの「ふやけたティーバッグみたいな感触」て描写の生々しさを覚えてる。
いや子供の頃にレイプされたのはわかるけど主人公男だよね……しかも子供だったんだよね……? て部分に釈然となかったあの頃。
・火の鳥好きだけどどの編がどんな話だったか正直あんま覚えてない。
でも確かに好きなエピソードを挙げろといわれたら「神よロビタを救いたまえ!」だよなー。
でも確かに我王には勝てないよ……猿田博士だし……。
・しかし手塚治虫の修正に関して語れるとかどこの次元のJKですか。
・シンゴジラのまねをして手のひらを空に向けてる神林しおりをフィルムに残そう。
・だからゴジラ対へドラみてるJKとかトロピックサンダーとかフロムダスクテイルドーンとかを好きだと語るJKと同レベルにどこ次元のJKなんだと。
・能動的な没入が求められるからこそのVR。
実際に最近そういうソフトウェアの話が出てたよね。初音ミクが座ってる横でゲームできるやつとか。
・三毛別羆事件はWikipediaで読んでさえ震え上がるくらい怖いからな……。
・どんなに優れたレビューよりも。
それはそれで寂しい話にも感じてしまう。
それならば物語の意義とはなんなのだろう。架空の物語はいつだって現実に勝てないものなのだろうか。
けれども。
バーナード嬢曰くは読書と人の関係みたいな話のように思ってる私としては、なんだか相応しいシメであった。
バーナード嬢曰くの3巻のリアルタイム感想前半戦。
感想と言うより反応。
読んでる最中に思ったことを即メモ書きしていくただたんにやってみたかっただけの行為です。
・表紙絵。
でもね、ド嬢。それがなければ読書家にはなれないんだよ。
ていうかそこは「ドグラマグラ」あげてよー。
人生変えられた本というと少し違うけど、さわ子はあの瞬間から読書家への一歩を確かに踏み出したんじゃんよー?
・表紙絵のインパクトはともかく、帯の時点でもうメモしたい。
「ド嬢は自分よりも読書家になっているんじゃないか……? と不安になっている読者もいるかも知れませんが」
まったくその通りです。
まったくその通りだけど、おれだっておれのそばに神林しおりがいたらそうなってたよ?
・人間臨終図鑑。面白そう。
風太郎せんせが資料として集めてたついでにこれまとめたら面白いんじゃね? と思ったからまとめたみたいな流れなんだろうか。
・トルストイ!? あの有名な!
さわ子さんドストエフスキーと区別付いてなかったりしませんか。
中編だから読みやすいっつっても罪と罰よんだ限りじゃ改行少なめのびっちりした文体でみためより文章量多いぞ。
・死をテーマにした小説。で、個人的な読書体験が即浮かばない読書筋の衰えが悔やまれる。
なんかあったはずなんだけどな……すぐに浮かんだのは星新一小松左京筒井康隆の御三家が「おれたちの中で最初に死ぬのは星さんだよね」「いいひとだもんな」「そんで最後まで生き残るのは筒井」「だろうなー」とか話してた通りになったねとかそのくらいだけどこれ別に小説じゃないし……。
・ダロウェイ夫人が二人の挙げている小説に似て逆パターンかな。
意識の流れを丹念に追う手法は似通っているけど、最終的には生きる活力を得る方向で終わったと思う。
実際んところはそれを原作にした映画の「めぐりあう時の中で」のが印象に強い。映画の方だとヴァージニア・ウルフさんが入水自殺するシーンから始まる。
・読書家二人で交換しあっちゃってハミ子にされて拗ねるさわ子だけどこれ大事な変化だよね。
読書家二人のやりとりにちゃんと参加意識を持ててるってことだもんな。以前なら「読書家っぽくてかっこいいな二人」で済んでたところですよ。
・現実に引き戻される神林しおり可愛くない?
・死ぬには良い日だってことですかね。トルストイの死に方。
若者に檄飛ばして割腹自殺した三島由紀夫とどっちがどのくらいだろう。
・近代付近の作家って自殺した作家とそうでない作家で大別できる気がしてしまう。
・しつこいくらいしゃしゃり出てくるんじゃない? と、ひねた言い方しかできない神林しおり。
やった! と素直に言える町田さわ子。
・年の離れた弟がいるので赤ん坊の泣き声は身近にあった。気がするんだけどあまり思い出せないな。
観察をしたことあった気はするけど、しかしここまで透徹とした視線であったはずがなく。
・「スランプ」な町田さわ子を慰める遠藤だけど、やはりド嬢周辺の人間はド嬢が読書家たろうとしているのを応援したがっているのか。
・私は電車に乗ってると妙に読書に集中できる。環状線のある地方を割と素で羨ましく思うくらい。
生活の中でそうした強制的な余暇があんまなくなったから読書から遠ざかってるのもあるんかなー……環境は人を作るよなー……。
・教科書にも載っているお話をなにその変な話とはなんだ。
夜の間に壁を伝い伸び屋根裏に潜む盗賊どもに近付き匂いを漂わせてくるノウゼンカズラの描写とかまさしく小説的であり文学ではないかとか書いたけどこれ羅生門ちゃう偸盗や。
・「本を読め」という神林しおりのコマが素で泣けるんですよ。
もう神林しおりはさわ子に対し「いいから読め!」と暴力を振るわないんですよ。
そんなことしなくたってさわ子が読むのをもう知ってるし、彼女が持つ読書への敬意ももう理解しているのだから。
バーナード嬢曰くという作品全体のなかでも大事な一コマになると思う。
ああ、読書家の友人とともにアルコールランプを読書灯に読書するさわ子の幸福げな表情をみたまえよ……。
・文学はもはや文学史となり歴史であって偉人も多く、為に読書家は名作名画への敬意も欠かさないのだ。
礼節が紳士を作るんだよ。たぶん。
すいませんシリーズ通してあんまみたことないのに 「ルーカスはディズニーが作ったスターウォーズを気に入ってないらしいよ」とか話題の種にしてすいません。
・コイツみたいなことを考えてしまった。
大丈夫だよ誰の心にも町田さわ子は偏在しているから。
・おらうーたん。検索した。そうか世界最初の名探偵か……。
一生読まないからネタバレしてもいいやって私もやったことあるな。
正確には、このゲームは遊ばないと決意してプレイ動画でエンディングまで観たんだけど。スゲエ後悔した。
むちゃくちゃかっこいいBGMがさ。すげえ大事なシーンで流れて、ああ実際にプレイする機会があればこれ異常の衝撃と感動を覚えただろうに、おれは自らその可能性を閉ざしてしまったのか。今生での機会を自ら潰してしまったのかとそれはもう悔やんだ。
Heartful Cryて曲なんだけど。
・おれネタバレを忘れるのけっこう得意。
読んでない本のネタバレなんて身につかないからいつか忘れる。て実践的でいいね。
・ネタバレはマナーとかの問題でなく、作品とその作品に触れる体験に対する敬意であって自己規範の話だと思う。
ネタバレしてたって面白い作品は面白いのであるからに。
・青春感じゃねえよ青春そのものだよ!!!
・ツノゼミは早川いくを著のへんないきもので知った。
それ単体で本に出来る勢いなのね……。
・神林しおりの「暑い」
「燃料投下」の実例というかもはや具現化をみた。
・あーもー神林しおりかわええよーもーなんだよ萌えマンガかよー。
・推理小説ってつきあい方が割と難しいよねと叙述トリックの話。叙述トリックがすごかったんだよーとかいうとネタバレになるわけだし。
割と小説ならではな手法になるんかな。エンタテイメント。でも映画でもそういうのはあるにはあるかとタイトルがいくつか浮かんだけど伏せておく。
・オイルランプの実証主義(?)はSF畑と捉えればいいのか推理畑と捉えればいいのか。
なににせよ「現実はこうでした」というネタばらしもなんだか名著の匂いだ(?
・古本屋で買った本に朱引きがしてあって、しかもそれが自分の気になったところに先んじて引いてあって、読みながら気になってしょうがなく読書に集中できなくてちくしょう前のこの本の持ち主はどんなヤツだったんだとイライラしながら読み終えたら自分の蔵書印が捺してあったという井上ひさし先生の話が好き。
・お前らエブリディ読書会じゃねえか。
・学研まんがシリーズが図書室通いの一歩という本読みは少なくないはずだぜ……あと世界の偉人シリーズとか。
あさりよしとお先生のまんがサイエンスシリーズを読んで、後々の後々にるくるくを読んでしばらくして「え。あ、まんがサイエンスのひとじゃねえかこのひと!」とか気が付いたりするよね。
・思いつきだけで生きてるのがよくわかるトンボと戯れる町田さわ子のシーン。
秘密の共有を持ちかけるとかしおりちゃんむっつりだわー……そのくせに積極的だわー……。
・読んでもらえないの! つって髪を振り乱す神林しおりチョーかわいくない?
・「お茶菓子つまんでガールズトーク! 楽しそーだな!!」という絶叫にこのこの将来が垣間見えた様な気がした。
・今んとこド嬢が取り扱ってない本読みあるあるに、『なんか大事にしすぎててかえって読めない小説』ってのがある気がする。
ルグィンの闇の左手が私にとってそこそこそれ。他芥川作品を全部読んでから読もうと決めてしまった河童と或阿呆の一生とか。
……別にあるあるじゃない可能性もあるな。
・沈黙映画化しますねそういえば。メル・ギブソンに自作自演マゾ映画とらせてる場合ではない。
しかしさわしおに比べて遠藤長谷川は全然進展しねーな。
・新潮文庫はyondaとか色々キャンペーン張ってて立派よね(……て思ったら2014年でもうキャンペーン終わってた
いやべつに他出版社がキャンペーン張ってないわけでもないのだが。
・高慢と偏見とゾンビとか、ごく最近な話題が入ってるとなんとなく驚くアレ。
作品と現実とが地続きに思えて少し不意を討たれる感じの。
・たぶん今頃アメリカには(名著)とゾンビてタイトルの本が豪華客船を沈ませかねない勢いで量産されているのだろう。
あるいはそれの結実が高慢と偏見とゾンビなのだろうか。
・大丈夫だよ神林ちゃん世の中にはそれで結局アンドロイドが電気羊の夢をみるのかどうなのか知らないのにタイトルに借用したり、
たった一つの冴えた方法がなんなのか知らないまんまタイトルに借用したりする’同人作家とかザラにいるから。
・なんとなく古本屋さんの文庫棚を眺めてるときに目に付いたらどうせ100円やそこらだし何冊も重複買ってたりする本があったりしませんか。
私にはありました。古橋秀之のブラックロッドという電撃文庫です。
・膝を折って古本屋の棚を凝視する神林しおり以上に神林しおりらしい可愛らしさに満ちた存在があろうか。
・本の価値はただの流通価値だからねー。
どんだけ素晴らしい思想の書かれた本であっても必要なのは紙代と印刷代と流通費用だけってのはなんだかなんとも。
・さわ子の読書家っぽく振る舞いたい話も久々な気がする。
それこそ「本の価値は自分で決める!」というしおりの反応と同じエピソードに収められていて好対照である。
・ガチ古書店。新古書店と違って、古書店には「たくさん印刷されてない専門書の流通を助ける」て作用があるからね。
古本屋が存在する限り、その本はいつかは必要とされている人のところへ届くのよ。そのあたりの話も過去の話になりつつあるけども。
・古本屋でこの本の値段いくらだろうと背表紙をみたら登場人物一覧の一人に赤線が引いてあったのはみたことある。買わなかったけど。
図書館で借りた本に同じく登場人物に赤丸が書かれてて、オイオイ公共物だぜと思ながら読み終えたけど犯人でもなんでもなかったという体験談を聞いたことならある。
・それ面白いです。と感想を述べるだけに済ませてる長谷川さんかわいくない?
・グレゴリ青山というひとの書いた古本屋バイト体験談マンガに「仕入れてきてとりあえず積んであるだけの本にお客さんが群がってくるのはなんで?」てネタがあったね。
店員からしてみてもあるある話なのか。
・雪国とぽっぽ屋がおれのなかで混ざってる。どっちも読んだことない。
・地の文っていいよなー……。
・ 冷えた神林しおりの手を町田さわ子が暖めたというお話は微笑ましくみえる一方で、看過しがたいほの寂しさを感じるのは私だけだろうか。
しばらくずっとさわ子としおりという関係が描かれたこのマンガにおいて、忘れものを取りにその場を去るという偶発時により神林しおりは久々の孤独を得る。
読書は体験で、その読書をした環境もまた体験であり思い出である。
より純粋な、書物の魅力に耽るならば環境という可変な要素は雑味であるかも知れないけれど。
それだとしても、峻厳な世界を描く小説と、かじかむ手とを重ねてみる神林はその小説世界に浸り、一体化している。
その瞬間の神林しおりは、読者と物語とが同化した純粋な存在のようにみえる。
しかし、そこに差し伸べられ包む手は、神林しおりを現実に引き戻し、物語から引きはがし、その暖かさでもってしおりと文学との結合を融解させる手である。
一時的にではあれ純粋な文学少女となっていた神林しおりの純潔が侵された瞬間でもある。
その後の、表紙について熱く語るしおりに理解を示さないさわ子という構図もなんだか示唆的だ。
読書というのは常に個的な体験であって、本を読んでいる最中の人々は常に孤独だ。
純粋な読書というものは孤独でなければできない。
例えば読書会のような感想の交換もまた豊かな体験ではあるけれど、そうして自分以外の感想とまざりあった感想は、純粋ではなくなるとも言える。
無論その純粋に価値があるかどうかは別問題として。
「バスが来たよ!」という、帰路を指す一言でエピソードが終えられるのもなんだか象徴的ではないか。
理解し合えないこと。共有の出来ないもの。そうした根本的とも言えるものを描いた様に思えるこのエピソードは、
確かに冷たく寂しい出来事ではあるけれど、孤独というものがもつ価値もまた噛みしめねばならない。
・要するに純潔が汚されたエロいシーンだよねといいたい。
・ちくま文庫の表紙っていいよねー。と思いつつきょとんとしてた私を納得させるオチ。
緩急もあって今巻で一番笑ったシーンになるかも。
この世界の片隅にを観たよという報告。
まとまった感想とか言えねえよこんなもんというくらい感情移入してしまった作品なので。感想とか評論というよりかはただの観たよー報告です。
断片的に思いつくまま書いていきます。
そのいち。選んだもの、選ばなかったもの、選べなかったもの。
映画版のこの世界の片隅にですげー好感触を持ってしまったところがひとつあって。
それは、すずさんの旦那さんである周作さんの女々しくも男子らしい部分であった。
男らしいのに女々しい。表現が変な気はするけど女子に対して女々しいとは言わないので男子に女々しいというのは相応に正しいはず。
バールのようなもの。という話はともかくとして。
女々しいという言葉も男性本位な視点っぽく思える言葉だからあんまり好きじゃないんだけど、他に適した言葉が見付からないので続けて使う。
周作さんは旦那として申し分なく優しい男性ではあるけれど、一方で煮えきれない女々しさもある。
折に触れて「すずさんに選択権を与えず嫁としてもらってきた」ということに負い目を感じてるだろう部分があって、
それと同時に「それでも自分に惚れてほしい・好いてほしい」という願望を隠せずにいる点である。
黙ってオレについてこい。みたいな封建的男性像よりかはずっと好印象なのは確かなんだけど。
その挙げ句に、水兵さんに女房を明け渡したりしてしまい、その後ずいぶん経ってすずさん当人から「夫婦いうのはそういうもんですか?」と怒りをぶつけられ「すずさんがわしにあんな顔をみせたことがあったか!? わしに怒ったことがあったか!?」と、幼なじみな二人の親密さに拗ねた末の行為だったと明かしてしまう女々しさ。
自分が選んで連れてきた。相手に選択権を与えなかったという負い目。どっちが表かはわからないけど、その裏返しの、相手に自分を選んで欲しいという願望。
そこからくる嫉妬や、義理に隠した自棄。それは作品を通じ長く尾を引いて色んなところで表層する。
例えば、「わしは、すずさんを選んだこの現実が最良の選択じゃ思う」だったり、
「わしはあんたと夫婦になれて楽しかったで、あんたのいる家に帰れて嬉しかったで。あんたは違うんか! ここはよう知らん男の家のまんまか!?」だったり。
一途なのだ。
とにかく、すずさんに自分を選んだと言って欲しくて、その自信が欲しくて。
ああ。ええ旦那さんや。すげえいいひとですよ周作さん。いやみんな知ってるだろうけど。すずさんといううわーちくしょーすげえーかーわーいーいー女性と所帯を持つに相応しい男性ですよ。
主人公とは、お話の選択権を知ってか知らずか与えられた存在ともいえる。
けれども、すずさんは何かを選んだだろうか。
ぽやーとしているすずさんは、流されるままに流されるけれども、したたかさも併せ持っていて、持ち前の柔軟さで、懸命に順応していく。
すずさんは何かを選んだだろうか?
「イヤだったら断ってしまえばいい」と言われたお見合いも、どっちかわからないとぼんやりしているうちに輿入れが決まる。
広島の風景を絵に留めて「さようなら」と呟いても切符を買い損ねてもう一日広島に逗留する。
幼なじみと再会しても「今はこんなにもあの人が憎い」と拒絶する。
広島に帰ると周作さんに言っても、やっぱりここに置いてくださいと径子さんにすがる。
あの人はここから離れられただろうか。家を壊してもらって、胸を張って別の土地にいけただろうか? と自問する。
おさげを切り落として「連れて行ってください!」と懇願しても「いけん!!」と強くたしなめられる。
選ばずにぼんやりしてたらいつのまにか決まっていたり。あるいは決めたつもりでも翻意にされたり。
決定権を色んな形で逃し気味のすずさんだけど、自らの選択をどうしようもなく悔やむシーンがある。
それは選択と言えたものだかどうだかわからないかすかなものだけど、それでも、自らの選択だと悔やむシーンがある。
晴美さんとつないだ手が、右手でなかったら。
書いててもうぼとぼと涙が出てくるけど。
だってどうしようもなかったじゃん。
どうしようもなかったじゃんかよお。もお、だって。選べるはずがないじゃないかそんなもの。
それでもすずさんは自分の選択を悔やむ。
繋いだのが右手でなかったら。もっと早く気付いていたら。 あの茂みに飛び込めていたなら。
あのときの自分の居場所はどこだったろう。
観ている側としてはそれはもう切実に、どうしようもなかったじゃないかと伝えたい。
選択権なんてそこになかったじゃないか。 選びようがなかったじゃないか。
本当にそうだろうか?
この作品は日常を描いた作品である。
どうしようもない世界規模の悲劇が起きたってそこには日常があるという話であり、日常の中にだってどうしようもない悲劇は怒るというお話でもあって、それでも日常は維持され続けるというお話でもあって。とにかく懇切丁寧に大事に、執念じみた情熱でもって日常というものが描かれた作品だ。
だから、日常というものの残酷さだって描いている。
玉音放送とともに戦争の終わった日、すずさんは何に気が付いたんだろう。
何に気が付かずに、いっそ何も知らないまま死にたかったと怒り狂い涙を流した「何か」とは何だったのだろう。
「暴力でうちたちを従えていたということか!」という身を切るようなあの怒りは、何が故だったのだろう。
径子さんは、なぜあのとき、晴美さんの名前を呼んで、一人泣いていたのだろう。
それはたぶん、諦めていたのだ。
そんなにも大事なものを失ってしまったのに、失ってしまったのも仕方がないと、諦めていたからだ。
径子さんという小姑さんはとても強い女性である。
何が強いかというと、何もかもを自分で選んで決めてきた女性だからだ。
旦那を病気で亡くし、二人の店は戦時だからと取り壊され、息子は旦那方の親戚に取られ、娘は戦災に奪われた。
思えばすさまじい来歴なのに。それを背負いながらも「自分で選んだ道だから悔いはない」とすずさんを励ましさえする。すずさんとはまったく対照的なひとだ。
だから、同じ諦めるにしたって、理由もなく諦めたりなんかは絶対にしない。
それなのに、戦争に負けたその日、娘の名前を叫びながら隠れて泣いていた。
径子さんは何に気が付いたのか。何を理由に諦めていたのか。
仕方がないと、諦めていたのだ。
どう仕方がないと諦めていたのかはわからないけれど、おそらくは「戦時中だから」「こんな時代だから」
だから「晴美さんがいなくなってしまったのも仕方がない」と。
もっと有り体に、とても酷い言い方をすれば。「戦争に勝つためならば晴美さんを引き換えにしても仕方がない」と。
径子さんがそんな選択をしたのだろうか?
するはずねえじゃねえかばかやろう。
事前にそんな要求をされたなら突っぱねたに違いない。知らぬ間に、気付かぬまに引き換えに連れさらわれたも同然だ。
だけれど。
あの慟哭は、径子さん自身がそれに気が付いてしまった叫びなのだと思う。
日常と引き換えに晴美をあきらめてしまったと。諦めたということは、もう、そんな選択をしたも同然だったのだと。
ずすさんが気づき、泣きながら怒り狂った何かの正体とはそれだ。
『日常』というものがどういう手段で守られていたか。
日常を守るために何が引き換えに差し出されていたか。
些細で、微笑ましく、ありふれていて、あんなにも、あるいはこんなにも愛おしい日常というものの正体が。正体という言い方が大げさならば、日常というものの持つひとつの側面がそれだったのだ。
それを選んだのだろうか?
選ばなかったからそうなったのだろうか?
それとも選べなかったのだろうか?
本当に?
答えなんかでるはずねえじゃねえかよ。というのが正直なところではある。
それとも、選んで選んで、自分で選んだ道だから仕方がないと言い、それでも泣いている径子さん相手に「選択の結果がそれだよね」だとか抜かせる人間がいるのだろうか。いるのならとりあえずぶん殴りたいけど。
それでなくとも。この作品にはどこか、選択という行為そのものに疑問を投げかけている節がある。
ぼんやりしているうちに、嫁に連れてこられたすずさん。
選んできたと自負しながらも心が折れてしまう径子さん。
「過ぎたことも選ばなかったことも覚めた夢と同然じゃ」と語る周作さん。
或いは、選択権という意味にほど近い、利き腕を失ってしまうすずさん。
或いは。選んだこと、選ばなかったこと。
選択という行為への疑問に、一つの回答のように、私にとっては救いのようにも思えるのがこのお話の最後にエピソードとして挿入される。
広島にいた、母親を失ったみなしご。
その母親は、左手で子と手を繋いでいた。右手ではなく。
それを救いだと解釈してしまうのは私が捻くれているからだろうか。
あのとき、晴美さんと繋いでいたのが左手だったとして。その結果に、もしかすると晴美さんと引き換えにすずさんが死んでしまったとしたならば、それは心に酷い傷を負った晴美さんがそこに残されたというだけなのではなかろうか。
もちろんそれでも死んでしまうよりはマシだと言える。けれど。
みなしごとともに描かれた、動かない母親にすがり、その母親に虫がたかるあの惨たらしい出来事にも似た悲劇が代わりに一つ増えるだけなのではあるまいか。
そう思えば、もう、何が間違ってただとか、何をすべきだったとか、正しいとか正しくないとかそういう話ではなくなるような気がするのだ。
それが自分が選んだ結果だろうとも、あるいは選び損ねたしっぺ返しだったりするかも知れないけれど……日常の正体とは、そういう話のようにも思えてくる。
ならば、この映画がみせた日常の尊さとはなんなのだろう。
たぶん、それの答えもこの映画は「すずさんのもつ強さ」という形で示してくれているように思う。たぶんだけど。
それがすずさんの決めた作中唯一のことだったらばこの与太話もきれいに絞まるのだけど、残念ながらそうとは断言できない。それでも。
母を失った子を抱いて、九つの嶺に守られているから九嶺というのだと由来を聞かせながら、呉へと帰っていくすずさん。
その直前に周作さんに訊ねられる。「家を出て広島に所帯を持つか?」と。それに対して「いいえ。呉はうちが選んだ居場所ですけえ」と答える。
それのもう少しだけ前に言っているのだ。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」
それは選択を受け容れる言葉であって。
選んだものを、選ばなかったものを、選べなかったものを。もしかするとそれの無数の積み重ねかもしれない日常というものを肯定する言葉だ。
そのときに初めて、すずさんというひとの強さを理解できた気がする。
でもその強さは作中に常にすずさんの微笑ましさとして現れてるんだよねー小姑さんにいけず言われてもへこたれない素直さとかそういう形でさーとかこれ以上は蛇足に蛇足にょきにょきでしかない感じなんでこの項は終了。
そのに。この作品にあった透明な執念。
最初に、文中のどこにも挟めそうにない個人的な体験を書いておくと。
広島に原爆が投下されるシーン。この作品のとても象徴的なシーンだと思う。この世界にやたらと大きな出来事が起きた一瞬で、それもとても近いところで起きた出来事なのに、画面の中の人々は「……あれ? なんだろうね。今の」「光ったよね。なんか、気のせいじゃないよね?」くらいに、不思議げに不安げに顔を見合わせるばかりで、結局は、戦時下という独特な環境ながらもいつもどおりの日常に戻っていくというシーンだった。
その一瞬の映像にはあの惨たらしい出来事を直接描くシーンはどこにもなかった。
あくまでも「あれ? 通り雨でもくるんかな?」というのどかささえ感じさせる絵面だった。
それなのに劇場中の観客のすすり泣きがすごかった。
見え透いた予兆ではあるし、日本に生まれたからには折りに触れて散々覚え込まされる悲劇の起きた一瞬ではあるけれども。ちょっと怖いくらいだったよ。うめき声めいた嗚咽も聞こえたし、前の座席か後頭部の方からかも分からないくらい色んな方向で少なからぬ人がすすり泣いていた。
おれも泣いてたんだけど。
ちょっと希有な体験だったね。
希有な体験ではあれども、日常の機微を、まるごと余さず描きつけたようなこの作品だからこその出来事だったようにも思う。
感想を言いづらい映画ってあるよな。
本当に大事なことは言葉に出来ないだとか、真の感動の前には言葉は無用だとか、そんな話ではなく。単にそういう性質を持つ作品てことである。
じゃあどんな性質かというとこれもなかなか……なんと言ったものか困るんだけど。そういった類いの作品をいくつか思い浮かべてみれば……宮崎駿の千と千尋だとか、ギレルモデルトロのパンズラビリンスとか……。
そうやって思いついた、なんか感想を言いづらい作品とこの世界の片隅にとにむりやり共通項を探してみれば、えーと、なんかこう……世界を、ほい。と丸ごと渡されるような、渡されるだけのような作品群がそれである。
こんなことがあったんだよ。と。
世界をそのまま渡されたような映画。とかいう大袈裟な表現を使わず単なる実感で言うならそんな感じだろうか。
こうの史代という作家のイメージはやはり「夕凪の街 桜の国」で形作られていて。
大それたことに挑戦したもんだというのが印象として強い。
戦争を経験してない人間が、戦争を極めて主観的に描いたお話だ。そう。主観的に、である。
創作とはつくりごとだ。架空の物語というのはどこまでいっても嘘なのだという宿命がある。そして現実はかたくなだ。
ヒロシマを舞台として創作をすると言うことは、ヒロシマを主題とした嘘をつくということだ。
そしてその嘘は悲劇を誇張するでもない、「どんな悲劇が起きたって変わらないものがある」と叫ぶものであった。捻くれた受け取り方をすれば、悲劇なんて大したことじゃないとさえなる。
そういう途方もない嘘をつくため、この作家はものすごく誠実になったに違いないと感じた。
神性を保つには不可侵なものにしといた方がいい。目を伏せて、禁句にしといた方がいい。
そんななかで、どこにだって日常はある。どんな状況でもひとは笑えると教えて貰えることの、なんと心強く、我々の後ろめたさを慰撫してくれることか。
だがそんな慰めを、戦争を体験してない人間が口にしていいものか。
そんな自問自答をこの作家先生はどれだけ繰り返したのだろう。自身の問いかけにどれだけ打ちのめされただろう。それへの答えはただ誠実に聞き学び調べること意外になかったのではなかろうか。
そうまでして描きたいものがあって、そうして描き上げたものがこの作品だったのだ。
どうあれ、とにかく私はこの 「夕凪の街 桜の国」 という作品を肯定したいと強烈に感じた。
でなければ先に進めないような気がしたし、こうの史代という作家個人一人のその挑戦を賞賛したいし、何よりも作品そのものに心動かされたからだ。
そのときの「おれはこの作品を肯定せねば」という独り合点な感情はだいぶ強烈に焼き付いてあって。
オープニングに、コトリンゴの歌う「悲しくて悲しくて」が流れたときに。「この限りないむなしさの救いはないだろか」という歌詞を聴いたときに。
ああ、これはそういう作品なのだと、観る側としての覚悟みたいなものはあった。
執念のありどころ。というようなものを思う。
映画に限らず諸作品は予備知識とかナシにみた方がなにかと都合がいい。
けれども、視聴前に漏れ聞こえてきた評価に「4年がかりで描き上げたらしい」「クラウドファンディングで資金を募って」「監督は一日の食費100円の生活を続けてたとか」等々、執念を感じさせるエピソードが多く。無意識的にそこんとこへの期待があったかも知れない。
感想を言いづらい映画があれば逆に言いやすい映画というのもあって、それらは監督の情熱が目に見える作品群のことだ。
おれはこの映画でこういうものを表現したいんじゃうおおおおおおーという熱量が伝わってくるよな映画がそれで、抑えようとも溢れ出る熱意でフィルムを蒸着させたような作品に対してはぽんぽん感想が出てくる。それだけ作品としての意図を察しやすいからでもあるし。基本的に私はそういう作品を選り好みする。
そんなだから、開始してからいつまでだかは少し拍子抜けのような印象があったと思う。
それは見終わってからも続いた気がする。
結論から先にいうと、監督の執念はこの作品を現実として現すことに費やされていたのではないか。というところに落ち着いた。
日常というものがなぜ曖昧かというと、意識にとまらない些細な出来事の集積だからだ。
自然とはもちろん不自然でなく、自然体であるということだ。人の創意が感じられては自然ではない。
監督の情念はどこにあるんだろうと最初に感じたけれど、それはおそらく、この作品が自然であるために抑えられたのだ。
この作品は日常を描くことに徹底している。これほどまでに日常を描くためには、既に過ぎ去った時代の空気を再現するためには、意識にとまらず忘れ去られる途方もない量の何事かに意識をとめて、いちいち気を配り、あの頃のあの呉を描くために必要なものを、厳選に厳選を重ねて、確かな筆致で描かなければならないはずだ。
そこには膨大な思考が費やされたはずだ。
それなのに、作品そのものにはそんな痕跡はなく、かろうじて感じられるのは徹底した無私だ。
この監督が費やした情念は、そのほとんどを、この世界の片隅にという作品をこの世に、自然に、描くために、透明に燃やされた。
それほどまでにこの世界の片隅にを「現実に」描きたかったのだろうか。
なぜだろう。
その理由もなんとなくわかる気がする。
この世界の片隅に起きたその物語を、現実に起きたことだと観客に信じさせたく、そして監督本人もそう信じたかったからではなかろうか。
予兆で劇場中がすすり泣いていた。というのは実際んとここの作品だからこそ行き会った出来事な気がする。
大事なのは、目の前に起きた出来事ではなく、『予感』が心に突き刺さったという点だ。
日常という形で、等身大という形で、強烈に感情移入を強いてくるこの作品に散々感情移入した今では、それも当然なことのように思う。
これだけ愛おしい日常が、徹底して破壊されてしまう予兆に泣いたのか。
すずさんという女性と、その近しい人々に起こるであろう災厄に泣いたのか。
どれだけ日常を守ろうと立ち働いても、それを覆い尽くす出来事には無力なのだと思い知らされて泣いたのか。
歴史上の事実であり、もはや不可避の行く末に他になすすべなく泣いたのか。
ただ単に、日本に生まれたからには散々教え込まされる悲劇だから、もはやフラットな感情で観ることが出来なかったというのもあるとは思うけど。
それでも、とにかく我々は、この強烈に、静かに暖かく、しかし速やかに感情移入を誘うこの物語の、目の前の日常がもはや他人事には思えず、そしてそれが壊されることを危惧して泣いたのだ。
この作品から反戦的なメッセージを受け取りすぎると、見零すところが多いと思う。
執念を感じさせる筆致で描かれた日常に、選りすぐられた日々の機微は、すべて架空の出来事で、それに現実感を与えるべく情熱と技巧の集結がこの作品だからである。極論すればヒロシマや戦時中の呉を舞台とした出来事でなくったって構わないはずだ。
歴史的な知識や前提がなくたって、すずさんのあの日常や細やかな可愛らしさは万人共通で心を打つはずだと思う。
だけれどもこの物語は、現実の出来事を敷き、この世界の片隅に絵空事の日常を描き足すことでこそ生まれ得る作品であることは違いない。
この世界の片隅にこんな日常があったと信じたい、という信念や情念や……とにかく、そんなものが根底であり芯となっている作品だからである。
どんな環境にあっても、日常はこんなにも強固だと信じたいのか。
日常はこんなにも楽しいものだと信じたいのか。
この世界の片隅にこんなことがあったかも知れないという物語であり、この世界の片隅にこんなことがあってもいいじゃないって物語でもあり、この世界の片隅にこんなことっだってあったに違いないって話なのだと思う。
こうの史代先生がこのお話を描いたのは、こんな日常があったに違いないと信じていたからだろうし。
それこそが、片渕須直監督の執念や情熱の拠り所だったのではなかろうか。
とにかく、強烈に、こんな物語が、こんな日常が、この世に確かにあったのだと誰かに伝えたかったのではなかろうか。
あるいは、これこそが創作の力なんだと、細やかな機微に共感し、起きてしまった悲劇と、その悲劇の予兆に涙腺を刺激される想像力と、それを惹起させる力こそがアニメーションもしくはつくりごとの力なのだと。
そう信じたからこそ、それを証明したかったからこそなのではないだろうか。
それを観た我々もまた感化されて思うのだ。この世界の片隅に起きたことは、この世界の片隅にもあるのだと。
きっと、この世界の片隅に、すずさんは生きていたのだと。この世界の片隅に、すずさんは生きているのだと。
そう信じたいからこそあんなに泣けたのではなかろうか(オレが)。こんなにも泣けるのではなかろうか(オレが)。
この出来事はそれの端緒な気がするんだよね。
そう思えばこそ、すずさんの呟いたあの一言がまた、強くて美しい言葉に思える。
「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見付けてくれて」